近所の歴史探訪~「物集女(もずめ)街道」編~
物集女(もずめ)、何とも読みにくい地名だ。
そもそも「物集女(もずめ)」の由来は何だ?
一説によると、河内国大鳥郡の百舌鳥(もず・現在の大阪府堺市あたり)に勢力をもっていた一族が、
この地に移り住んだことによるらしい。「もず」という音に「物集」という字を当てた?
戦国時代には、この地域を本拠にした土豪が「物集女」氏を名乗っていたが、
織田信長の支配下で細川藤孝によって滅ぼされたようだ。
物集女氏の居城であった物集女城は、堀や土塁の一部が物集女城跡として残っている。
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⑫物集女の歴史と地名の由来 案内板 |
「物集女街道」って、何処から何処までなのかよくわからない。
[Google Map]では、松尾大社前あたりから「向日町道路元標」のある西国街道との合流点辺りまで
となっている。それに従おう。
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物集女街道及び沿線の見所(赤字はGoogle Mapには表示されていません)
No | 見所 | One Point |
① | 松尾大社 | ご存知「松尾大社」。祭神は、大山昨神(おおやまくいのかみ)と市杵島姫(いちきしまひめ)命。 701年に秦忌寸都理( はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請し 秦氏の氏神として建立したのが起源だと伝えられている。 酒造の神として信仰されるようなったのは中世以降で、秦氏が酒造技術を伝えたからとか、 松尾の神が全国から集まる神々に松尾・嵐山で採れるお米や山からの湧き水を使って 酒を作り振る舞ったからという言い伝えが もとになっているようだ。 なお、磐座は登拝することが出来ます(有料)。 |
② | 月読神社 | 祭神は月読命。伊邪那岐の禊ぎにより右眼から生まれた。姉は、天照大御神(左眼)、 弟は素盞嗚命(鼻)。 詳細は「月讀(つきよみ,つくよみ)神社」参照。 |
③ | 洛西用水円形分水 | 嵐山桂川右岸一ノ堰から取水する洛西用水(東幹線)をここで分水している。 堤防をサイフォンで潜った出口で「ひの字形溢流式」 。京都府下ではここだけか? |
④ | 西芳寺川古墳群 | 鈴虫寺、苔寺の脇を流れる西芳寺川上流約1kmほどのところにある。石室の形状を よく残すものが複数基ある。詳細は、 「近所の歴史探訪~「西芳寺川古墳群」編~」, 「近所の歴史探訪~「西芳寺川古墳群(その2)」編~」 「近所の歴史探訪~「西方寺川古墳群(その3)」編~」 「近所の歴史探訪~「西芳寺川古墳群(その4)」編~」 を参照してください。 |
⑤ | 御霊神社 | 往古上桂村を開拓した人々が太田神(田の神)を祀ったのが起源だそうだ。 その後桓武天皇の第三皇子である伊予親王を合祀したようだ。 伊予親王は、 冤罪(?)で母(藤原吉子)と共に幽閉されのち心中したと言う。御霊神社の祭神は 太田神と伊予親王。他に北宮(火雷神,菅原道真)、照玉の松、小宮等がある。 |
⑥ | 浄住寺【道標】 | 黄檗宗の寺。方丈は仙台藩主「伊達綱村」が寄進した。 |
⑦ | 上ノ山古墳 | 古墳後期の円墳で、直径10mだそうです。案内標識がないと古墳とは分からない?。 |
⑧ | 葉室御霊神社 | 平安時代この地には葉室家の荘園が営まれていた。 その頃、鎮守の神として、葉室家の霊を祀り御霊神社を建立したそうだ。葉室の名は「葉室町」として地名にも残されている。 |
⑨ | 天皇ノ杜古墳 | 古墳時代前期の前方後円墳。保存状態はよい。全長83mで市内では最大級。 桂川右岸を統括した豪族の墓と考えられている。名前は平安時代の文徳天皇の御陵と されてきたことに由来する。付近には御陵の地名も残る。 |
⑩ | 水路 | 物集街道を跨ぐ構造物。何かと思って調べてみたら水路でした。 |
⑪ | ?神社 | 水路の下流部にある名も無き神社。 |
⑫ | 物集女の歴史と地名の由来 案内板 | 「物集女の歴史と地名の由来」が解説されている |
⑬ | 物集女北ノ口の常夜燈 | 天保2(1831)年、地区の青年集団である「若中」が建立 |
⑭ | 物集女城跡 | 中世に地域一帯を本拠としていた物集女氏の居城跡。 南北75m、東西70mの規模を有する城であったようだ。土塁と豪が残ったいる。 桂川西岸一帯の支配を任せられた細川 藤孝は、周辺の各城主に信長に従うよう命令したが、物集女氏の当主忠重入道宗入はこれに従わず、 天正3年(1575)に勝龍寺城において殺されている。 |
⑮ | 中海道遺跡の豪族居館と祭殿 | 今から1700年前(古墳時代初頭)の豪族の居館と祭殿の跡地。 |
⑯ | 旭米顕彰碑 | 明治時代の終わりに稲の新品種[旭]を発見した「山本新次郎」を功績をたたえて 建立された。 |
⑰ | 灯籠 | 「村中安全」「愛宕山常夜燈」と描かれている。 隣の地蔵堂には、御詠歌「さくら井のあとに残れる地蔵尊しゃく杖につどふ子供やすかれ」。 |
⑱ | 淳和天皇御火葬所 | 淳和天皇の火葬の場とされる地。遺骨は西の小塩山に埋葬された。 物集女車塚古墳は、淳和天皇の棺を運んだ車を埋めたという言い伝えに因む。 |
⑲ | 物集女車塚古墳 | 詳細は「近所の歴史探訪~「物集女車塚古墳」編~」参照。 |
⑳ | 琴の橋 | 何とも雅な名前だが、由来は、応仁の乱で都から逃げ延びてきた美しい姫が 川に行きあたったが橋がない。身の不運と諦めかけた時、日頃信仰する大日如来に、 「供のもつ琴を橋の代わりにかけなさい」と声をかけられ、無事逃げ延びたのだとさ。 その後石橋が架けられ永年親しまれてきたが今は面影はない。 |
㉑ | 南条3号墳 | 古墳時代中期の円墳。直径23.5m,高さ3.5m。 古墳は墓地の中にあります。見学時はお静かに。 |
㉒ | 寺戸大塚古墳 | 古墳時代前期の前方後円墳。全長98m,前方部幅45m,後円部径57m,後円部高9.8m。 |
㉓ | 千代櫻天満宮 | 菅原道真が筑紫に向けて平安京を出たのはうららかな春。 「途中向日市の西の岡あたりで見事な桜が咲いていた。道真は京の都の方に花びらが 流れて散っていくのをじっと見つめて立ちつくした。道真が去った後、 村人は道真の去りがたかった心境を察し、そして子供にも知恵を授けてもらおうと 天満宮を建立した」と言い伝えられています。 |
㉔ | 天満宮 | 鳥居の「額束」に「天満宮」と書かれているが詳細は不明。 |
㉕ | 山城寺戸城址 | 室町時代に活躍した竹田氏の城館があったとされる地。 付近には古城、南垣内などの地名が残っている。 |
㉖ | 寺戸列慶 | 向日神社関連。鳳輦(ほうれん)の立ち寄り先。鳳輦とは、神社の祭りなどに使われる鳳凰の飾りがある神輿のこと。 |
㉗ | 白鳳の泉 | 白鳳時代(=7世紀後半)より続いていると言い伝えられる。マンション建設で破壊された。 |
㉘ | 五塚原古墳 | 古墳時代前期の前方後円墳。全長94m,後円部の直径54m,高さ8.4m,前方部の幅36m, 高さ4m。元の姿をよく残している。後円部には三角点がある。古墳の裾には、大池、はり湖池がある。 |
㉙ | 向日市文化資料館 | 長岡京(789~794年)の遷都1,200年を記念して建設された。 常設展では、向日市内にある国の史跡 長岡宮大極殿・朝堂院の復元模型や、遺跡からの出土品を展示している。 「バーチャル長岡京3Dマップ」により長岡京を自由に体感することが出来る。 入館は無料。開館時間は10:00~18:00。休館日は月曜日、毎月1日、年末年始。 玄関先には、元稲荷古墳石室の天井石が展示されている。 |
㉚ | 中ノ段古墳 | 向日消防署の東側で発掘された古墳時代後期の円墳跡。当時の形跡は全くなし。 案内板が向日市民会館角に立っている。 |
㉛ | 向日町道路元標 | 大正9(1920)年に施行された旧道路法と同法の施行令にもとづき, 当時の市町村に設置されたもので、市役所や町村役場の前など中心部を選んで 建てられ、道路の起点表示の原点となったり,市町村間の距離表示の原点になった。 「近所の道路元標」もご参照ください。 |
見所の写真は、Google Map(マイマップ)に集約しました。
使い方は、
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③地図上のマーカー若しくは左側の項目名をクリックします。
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それでは最後までお楽しみください。
近所の歴史探訪「街道」編は、
①近所の歴史探訪~「山陰街道」編~
②近所の歴史探訪~「山陰街道(その2)」編~
③近所の歴史探訪~「西国街道(その1)」編~
④近所の歴史探訪~「西国街道(その2)」編~
⑤近所の歴史探訪~「西国街道(その3)」編~
⑥近所の歴史探訪~「物集女街道」編~
⑦近所の歴史探訪~「桂川街道」編~
の以上7編で完結です。