2017年10月14日土曜日

近所の歴史探訪~「物集女街道」編~

近所の歴史探訪~「物集女(もずめ)街道」編~


物集女(もずめ)、何とも読みにくい地名だ。

そもそも「物集女(もずめ)」の由来は何だ?
一説によると、河内国大鳥郡の百舌鳥(もず・現在の大阪府堺市あたり)に勢力をもっていた一族が、
この地に移り住んだことによるらしい。「もず」という音に「物集」という字を当てた?

戦国時代には、この地域を本拠にした土豪が「物集女」氏を名乗っていたが、
織田信長の支配下で細川藤孝によって滅ぼされたようだ。
物集女氏の居城であった物集女城は、堀や土塁の一部が物集女城跡として残っている。
⑭物集女城跡
⑭物集女城跡 案内板
⑫物集女の歴史と地名の由来 案内板
 さて、物集女(もずめ)の由来が少し分かったところで、本題の「物集女街道」の話に戻そう。
「物集女街道」って、何処から何処までなのかよくわからない。
[Google Map]では、松尾大社前あたりから「向日町道路元標」のある西国街道との合流点辺りまで
となっている。それに従おう。
スタート
①松尾大社前交差点。鳥居は改修中。
ゴール
㉙向日町道路元標
 北の方から順に物集女街道及び沿線の見所を紹介。

物集女街道及び沿線の見所(赤字はGoogle Mapには表示されていません)
No 見所 One Point
松尾大社 ご存知「松尾大社」。祭神は、大山昨神(おおやまくいのかみ)と市杵島姫(いちきしまひめ)命。
701年に秦忌寸都理( はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請し
秦氏の氏神として建立したのが起源だと伝えられている。
酒造の神として信仰されるようなったのは中世以降で、秦氏が酒造技術を伝えたからとか、
松尾の神が全国から集まる神々に松尾・嵐山で採れるお米や山からの湧き水を使って
酒を作り振る舞ったからという言い伝えが もとになっているようだ。
なお、磐座は登拝することが出来ます(有料)。
月読神社 祭神は月読命。伊邪那岐の禊ぎにより右眼から生まれた。姉は、天照大御神(左眼)、
弟は素盞嗚命(鼻)。
詳細は「月讀(つきよみ,つくよみ)神社」参照。
洛西用水円形分水 嵐山桂川右岸一ノ堰から取水する洛西用水(東幹線)をここで分水している。
堤防をサイフォンで潜った出口で「ひの字形溢流式」 。京都府下ではここだけか?
西芳寺川古墳群鈴虫寺、苔寺の脇を流れる西芳寺川上流約1kmほどのところにある。石室の形状を
よく残すものが複数基ある。詳細は、
近所の歴史探訪~「西芳寺川古墳群」編~」,
近所の歴史探訪~「西芳寺川古墳群(その2)」編~
近所の歴史探訪~「西方寺川古墳群(その3)」編~
近所の歴史探訪~「西芳寺川古墳群(その4)」編~
を参照してください。
御霊神社 往古上桂村を開拓した人々が太田神(田の神)を祀ったのが起源だそうだ。
その後桓武天皇の第三皇子である伊予親王を合祀したようだ。 伊予親王は、
冤罪(?)で母(藤原吉子)と共に幽閉されのち心中したと言う。御霊神社の祭神は
太田神と伊予親王。他に北宮(火雷神,菅原道真)、照玉の松、小宮等がある。
浄住寺【道標】 黄檗宗の寺。方丈は仙台藩主「伊達綱村」が寄進した。
上ノ山古墳 古墳後期の円墳で、直径10mだそうです。案内標識がないと古墳とは分からない?。
葉室御霊神社 平安時代この地には葉室家の荘園が営まれていた。
その頃、鎮守の神として、葉室家の霊を祀り御霊神社を建立したそうだ。葉室の名は「葉室町」として地名にも残されている。
天皇ノ杜古墳 古墳時代前期の前方後円墳。保存状態はよい。全長83mで市内では最大級。
桂川右岸を統括した豪族の墓と考えられている。名前は平安時代の文徳天皇の御陵と
されてきたことに由来する。付近には御陵の地名も残る。
水路 道路を跨ぐ構造物。何かと思って調べてみたら水路でした。
?神社水路の下流部にある名も無き神社。
物集女の歴史と地名の由来 案内板 「物集女の歴史と地名の由来」が解説されている
物集女北ノ口の常夜燈 天保2(1831)年、地区の青年集団である「若中」が建立
物集女城跡 中世に地域一帯を本拠としていた物集女氏の居城跡。
南北75m、東西70mの規模を有する城であったようだ。土塁と豪が残ったいる。
桂川西岸一帯の支配を任せられた細川 藤孝は、周辺の各城主に信長に従うよう命令したが、物集女氏の当主忠重入道宗入はこれに従わず、
天正3年(1575)に勝龍寺城において殺されている。
中海道遺跡の豪族居館と祭殿 今から1700年前(古墳時代初頭)の豪族の居館と祭殿の跡地。
旭米顕彰碑 明治時代の終わりに稲の新品種[旭]を発見した「山本新次郎」を功績をたたえて
建立された。
灯籠 「村中安全」「愛宕山常夜燈」と描かれている。
隣の地蔵堂には、御詠歌「さくら井のあとに残れる地蔵尊しゃく杖につどふ子供やすかれ」。
淳和天皇御火葬所 淳和天皇の火葬の場とされる地。遺骨は西の小塩山に埋葬された。
物集女車塚古墳は、淳和天皇の棺を運んだ車を埋めたという言い伝えに因む。
物集女車塚古墳 詳細は「近所の歴史探訪~「物集女車塚古墳」編~」参照。
琴の橋 何とも雅な名前だが、由来は、応仁の乱で都から逃げ延びてきた美しい姫が
川に行きあたったが橋がない。身の不運と諦めかけた時、日頃信仰する大日如来に、
「供のもつ琴を橋の代わりにかけなさい」と声をかけられ、無事逃げ延びたのだとさ。
その後石橋が架けられ永年親しまれてきたが今は面影はない。
南条3号墳 古墳時代中期の円墳。直径23.5m,高さ3.5m。
古墳は墓地の中にあります。見学時はお静かに。
寺戸大塚古墳 古墳時代前期の前方後円墳。全長98m,前方部幅45m,後円部径57m,後円部高9.8m。
千代櫻天満宮 菅原道真が筑紫に向けて平安京を出たのはうららかな春。
「途中向日市の西の岡あたりで見事な桜が咲いていた。道真は京の都の方に花びらが
流れて散っていくのをじっと見つめて立ちつくした。道真が去った後、
村人は道真の去りがたかった心境を察し、そして子供にも知恵を授けてもらおうと
天満宮を建立した」と言い伝えられています。
天満宮 鳥居の「額束」に「天満宮」と書かれているが詳細は不明。
山城寺戸城址 室町時代に活躍した竹田氏の城館があったとされる地。
付近には古城、南垣内などの地名が残っている。
寺戸列慶 向日神社関連。鳳輦(ほうれん)の立ち寄り先。鳳輦とは、神社の祭りなどに使われる鳳凰の飾りがある神輿のこと。
白鳳の泉 白鳳時代(=7世紀後半)より続いていると言い伝えられる
五塚原古墳 古墳時代前期の前方後円墳。全長94m,後円部の直径54m,高さ8.4m,前方部の幅36m,
高さ4m。元の姿をよく残している。後円部には三角点がある。古墳の裾には、大池、はり湖池がある。
向日市文化資料館 長岡京(789~794年)の遷都1,200年を記念して建設された。
常設展では、向日市内にある国の史跡 長岡宮大極殿・朝堂院の復元模型や、遺跡からの出土品を展示している。
「バーチャル長岡京3Dマップ」により長岡京を自由に体感することが出来る。
入館は無料。開館時間は10:00~18:00。休館日は月曜日、毎月1日、年末年始。
玄関先には、元稲荷古墳石室の天井石が展示されている。
中ノ段古墳 向日消防署の東側で発掘された古墳時代後期の円墳跡。当時の形跡は全くなし。
案内板が向日市民会館角に立っている。
向日町道路元標 大正9(1920)年に施行された旧道路法と同法の施行令にもとづき,
当時の市町村に設置されたもので、市役所や町村役場の前など中心部を選んで
建てられ、道路の起点表示の原点となったり,市町村間の距離表示の原点になった。
近所の道路元標」もご参照ください。

見所の写真は、Google Map(マイマップ)に集約しました。
使い方は、
 ①右上の[拡大地図を表示]をクリックし大きな地図を表示させます。
 ②右下の[+ -]で地図の表示を拡大(または縮小)します。
 ③地図上のマーカー若しくは左側の項目名をクリックします。
 ④左側に表示される写真をクリックすると写真が大きく表示されます。
 ⑤[]をクリックすると次の写真が表示されます。
    (途中で戻りたいときは[]、④に戻りたいときは左上の[]をクリックします)
 ⑥最後まで見ると④に戻ります。
 ⑦項目名の前に表示される[]をクリックすると③に戻ります。

それでは最後までお楽しみください。


近所の歴史探訪「街道」編は、
 ①近所の歴史探訪~「山陰街道」編~
   ②近所の歴史探訪~「山陰街道(その2)」編~ 
 ③近所の歴史探訪~「西国街道(その1)」編~
 近所の歴史探訪~「西国街道(その2)」編~
 近所の歴史探訪~「西国街道(その3)」編~
 近所の歴史探訪~「物集女街道」編~
 近所の歴史探訪~「桂川街道」編~
の以上7編で完結です。