2018年12月22日土曜日

ブルー スクリーン エラー(Blue Screen Error)

ブルー スクリーン エラー(Blue Screen Error)


もう数十年もの間パソコンを使っているが「ブルースクリーンエラー」なるものに出会ったことはなかった。
幸か不幸か今回初めて出会った。

パソコンは、エラーメッセージ表示後再起動され一応利用可能な状態に戻る。
全く使えなくなったわけではないが、気分的によろしくないので少し調べてみることに。

パソコンは、Windows10(Ver.1803)、OfficeはH&B Premium、購入後1年少々経過。
★トラブル発生時Windows10はVer.1803であったが、現在はVer.1809。
★以下の操作手順はVer.1803での手順。
★Ver.1809では項目が無くなっていたり表記方法が異なっているものがある。

今回試してみた修復処置(修復出来ているのいう確証はない)を備忘録として残す。
読み辛いが、QRコードの横には
 この問題と可能な解決方法については、以下を参照してください。
 https://www.microsoft.com/stopcode
 サポート担当者に連絡する場合は、この情報を伝えてください。
 停止コード UNEXPECTED STORE EXCEPTION
と書かれている。

上記URLにアクセスすると、
ブルースクリーンエラーのトラブルシューティング」というタイトルで
「エラーが発生したのはいつですか。」との問いが表示されているので
「PCの使用中」にチェックを入れると

決して「古いPC」には該当しないと思うが、取り敢えず提示された項目をチェックしてみることに。
=>「ソフトウェアを削除する,外部ハードウェアを取り外す,セーフモードで起動する」
  の3項目は該当しないと判断しチェックは実施していない。

1.Windows10のもつトラブルシューティングの「ブルースクリーン」
手順:
 [スタート]=>[設定]=>[更新とセキュリティ]=>[トラブルシューティング]=>
 [ブルースクリーン]=>[トラブルシューティングツールの実行]
結果:
 「問題は特定できませんでした」と表示された。
  ①Windows10の「トラブルシューティング・ブルースクリーン」は余り信用できない?
  ②Windows10 Ver.1809ではこの項は削除されている?

2. デバイスのパフォーマンスと正常性をスキャンする
手順:
 [スタート]=>[設定]=>[更新とセキュリティ]=>左側の[Windowsセキュリティ]=>
 [Windows Defenderセキュリティセンターを開く]=>[デバイスのパフォーマンスと正常性]
結果:
 「記憶域領域,デバイスドライバー,バッテリーの寿命,アプリとソフトウェア」
 何れも「問題ありません」と表示された。

3. 更新プログラムのチェック
手順:
 [スタート]=>[設定]=>[更新とセキュリティ]=>[Windows Update]=>[更新の履歴を表示する]で確認
結果:
 「最新の状態です」と表示されている。
 「更新プログラムのチェック」をしても「最新の状態です」と表示される。

4.Windows Defenderオフラインの実行
手順:
 [スタート]=>[設定]=>[更新とセキュリティ]=>左側の[Windowsセキュリティ]=>
 [Windows Defenderセキュリティセンターを開く]=>[ウイルスと脅威の防止]=>
 [新しい高度なスキャンを実施]=>[Windows Defenderオフラインスキャン]にチェッを入れて=>
 [今すぐスキャン]=>[スキャン]
Ver1809では、
 [Windows セキュリティーを開く]=>[ウイルスと脅威の防止]=>
 [スキャンのオプション]=>[Windows Defenderオフラインスキャン]にチェックを入れて=>
 [今すぐスキャン]=>[スキャン]
結果:
 特に問題なさそう。

5. 高速スタートアップをオンまたはオフにする
手順:
 [スタート]=>[設定]=>[システム]=>[電源とスリープ]=>
 右側の[関連設定]の下の[電源の追加設定]=>左側の[電源ボタンの動作を設定する]=>
 [現在利用可能でない設定を変更します]=>
  ①[高速スタートアップを有効にする]にチェックが入っていれば外す
  ②[高速スタートアップを有効にする]にチェックが入っていなければ入れる
結果:
 現在、[高速スタートアップを有効にする]のチェックを外し様子見状態。
 但し、当然だが起動時間が大幅に遅くなる。

6.ドライバーの更新
 ①ネットワークアダプター
 ②ヒューマンインターフェースデバイス
 ③マウスとその他のポインティングデバイス
 ④ユニバーサルシリアルバスコントローラー
 ⑤印刷キュー
を調査対象とした。
手順:
 [スタート]=>[コントロールパネル]=>[デバイスマネージャー]で
 [デバイス名をダブルクリックし詳細なデバイス名を展開]=>
 展開されたデバイス名の上で[右クリック]し=>[ドライバーの更新]=>
 [ドライバー ソフトウェアの最新版を自動検索します] 。
結果:
 ①ネットワークアダプタ,ヒューマンインターフェイスアダプタ,マウスとその他ポインティングデバイス
  でそれぞれ1つのドライバーが「ドライバが正常に更新されました」と表示された
 ②上記以外は「このデバイスに最適なドライバーが既にインストールされています」と表示された。

7.その他の確認項目
 マイクロソフトの提示するチェック項目以外に以下の項目もチェックしてみた。
①メモリー診断
手順:
 [スタート]=>[すべてのプログラム]=>[Windows管理ツール]=>[Windowsメモリ診断]=>
 [今すぐ再起動して問題の有無を確認する]
結果:
 「メモリーエラーは検出されませんでした」と表示された。
   =>診断結果は右下隅から飛び出すように数秒間だけ表示されますのでお見逃しなく。
②ディスクのエラーチェック
手順:
 [エクスプローラーを起動]=>左側に表示される[OS(C)]の上で右クリック=>
 [プロパティ]=>[ツールタブ]=> [エラーチェック]の項で=>[チェック]
結果:
 「ドライブのスキャンが正常に完了し、エラーは検出されませんでした」と表示された。

【まとめ】
1.「『ドライバーの更新』で幾つか更新があった」以外は、問題は特定されなかった。
 これをもって「ブルースクリーンエラー対応は完了」といえるのかどうか大いに疑問で不安であるが、
 他の手立ても思いつかないので暫くはこの状態で様子見。

2.「ブルースクリーンエラー」への対応を進める過程で普段使わないWindowsのもつ診断機能を見つけた。
 「イベントビューアー」と「信頼性モニター」。何れも初めて見るものだ。
①イベントビューアー
 ★「ブルースクリーンエラー」発生時の[Bug Check Code]を知ることができる。
 ★「Bug Check Code」の意味は【バグチェックリファレンス】で確認することができる。 
手順:
 [スタートボタン]の上で右クリック=>[イベントビューアー]=>[システム]
 [Windowsログ]をダブルクリックして展開し=>[システム]をダブルクリック=>
 ソースが「BugCheck」となっているイベントを探す=>[BugCheckイベント]をダブルクリック=>
 [イベントプロパティ]画面が表示される。
 (下図の赤枠部分が[Bug Check Code]。サンプルは[0x0000154]となっている)
イベント プロパティ(全般タブ)
イベント プロパティ(詳細タブ)
[Bug Check Code][0x0000154]を【バグチェックリファレンス】で調べると
原文
The UNEXPECTED_STORE_EXCEPTION bug check has a value of 0x00000154. This indicates that the store component caught an unexpected exception.
 Google翻訳
UNEXPECTED_STORE_EXCEPTIONバグチェックの値は0x00000154です。 これは、ストアコンポーネントが予期しない例外をキャッチしたことを示します。
ということだそうだ。この解説で原因が特定できる方は"天才"だ

②信頼性モニター
 ★システムの安定性に関する概要や、信頼性に影響を与えるイベントの詳細な記録を表示してくれる
 ★Windowsやアプリのアップデートやドライバーなどハードウェア・ディバスの更新が行われた履歴や、
  途中でシステムに何らかのエラーが発生し失敗した場合、それらの履歴を記録、原因などを調べて
  システムの安定性をグラフで表示してくれる。
手順:
 [スタート]=>[コントロールパネル]=>[セキュリティとメンテナンス]=>[メンテナンス]=>
 [信頼性履歴の表示]
 
サンプル(ブルースクリーンエラー発生当時のものではない)
信頼性モニター

2018年12月9日日曜日

京都が日本初 (発祥の地)

京都が日本初 (発祥の地)

今年は、明治150年にあたるそうだ。
「千年以上続いた都が京都から東京に移されてから150年が経った」ということだ。

当時の京都は、幕末の動乱と東京遷都で、
市民は意気消沈、景気は衰退し町中灯が消えたような状態だったという。

そこで、京都の町衆や時の為政者らが立ち上がり京都の復興を目指し教育や
殖産興業に力を入れ近代化が推し進められた。

教育分野では、明治政府が近代教育制度を定める3年も前に日本初の小学校が設立され、
幼稚園、視聴覚障害者のための学校、女学校なども全国に先駆け次々と設立された。

また、琵琶湖疏水の建設という大型公共事業を通して産業の近代化と振興が図られた。
総延長約20kmに及ぶ琵琶湖疏水が建設され、2,436mの長等山トンネル、インクライン、
事業用水力発電所、この電力を利用した路面電車などなど日本初の偉業が数多くなされた。

市内には「京都が日本初 (発祥の地)」の偉業を示す碑が幾つも建立されている。

今まで訪れたことのあるところを幾つか紹介(順不同)。
No31~は「京都が日本初 (発祥の地) その2」をご参照ください。

【京都市内】
1 日本最初小学校 柳池校 2 日本最初の幼穉遊嬉場 3 日本最初視聴覚障碍者のための学校
4 本邦高等女学校之濫觴 5 水力発電事業発祥之地 6 本邦最初鉄筋混凝土橋
7 電気鉄道事業発祥地8 日本最古の洋紙製紙場 9 駅伝発祥の地
10 囲碁「本因坊」発祥の地11 清水焼発祥之地 12 小倉餡発祥の由来
13 八つ橋発祥之地 14 すぐき発祥之地 15 阿国歌舞伎発祥地
16 石門心学発祥之地 17 日本映画発祥の地 18 京都電信電話発祥の地
19 学習院発祥の地 20 扇塚 21いけばな発祥の地
22日本気学発祥地23刃物発祥地24粟田焼發祥之地
25みたらし団子発祥の地26軟式野球発祥の地27生洲(いけす)料理店発祥の地
28日本近代医学発祥之地29煎餅発祥の地30少林寺拳法根本道場発祥地
No31~は「京都が日本初 (発祥の地) その2」をご参照ください。
※住所部分をクリックすると地図が表示されます。
※Google Mapには、表記されていない箇所もあります。

1.日本最初小学校 柳池校(中京区東八幡町。現在の御池中学校)
日本最初小学校
日本最初小学校
明治元年九月種痘館(元有信堂)を仮学舎として授業開始
明治二年五月二十一日 富小路御池角守山町に学舎落成開校式挙行
           上京区第二十七番組小学校と称す
明治六年九月     柳馬場御池角川越邸祉に新築移転
           爾後「柳池校」と称す


2.日本最初の幼穉遊嬉場(中京区東八幡町。現在の御池中学校)
日本最初の幼穉遊嬉場
「幼穉遊嬉場(ようちゆうぎじょう)」とは今でいう幼稚園のようなもの
京都市立 柳池幼稚園記念碑
 開園  明治8年12月
 閉園  平成8年3月

3.日本最初視聴覚障碍者のための学校
①日本盲唖教育發祥之地
(
上京区大黒町(猪熊通))
②日本最初盲唖院開學之地
(中京区舟屋町(東洞院通))
③日本最初盲唖院創建之地
(中京区梅屋町(釜座通))
案内板などはないが、資料によると
明治八年(1875)に待賢小学校に「瘖唖教場(①)」が開設され聴覚障害児の教育が始まった。
その後、明治十年(1877)には聴覚障碍者の受け入れも始まり、明治十一年(1878)には 日本最初の視聴覚障碍児の学校「盲唖院(③)」が開設された。
翌明治十二年には釜座通丸太町上ルに移り京都府の認可を得て「京都府立盲唖院(③)」となった。後の京都府立盲学校となる。

4.本邦高等女学校之濫觴(上京区駒之町 丸太町橋西詰
 (濫觴(らんしょう):物事の起こり。始まり。起源) 
日本最初の女学校。
本邦高等女学校之濫觴 女紅場址
 
京都府立鴨沂高等学校
「女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校創立当初ノ名称ニシテ明治五年四月十四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ」

京都市のフィールド・ミュージアム京都によれば、
「明治期の女子教育機関である女紅場は,明治5(1872)年,九条家河原町別邸内に設けられた。英学と女工(手芸・手工)の二科を置き,英国人イーバンス夫妻を教師に招き,新英学校女紅場と呼ばれた。同7年に英女学校女紅場,のち京都府立京都第一高等女学校となる。現府立鴨沂高校の前身である。この石標はその跡を示すものである。なお,女紅場(にょこうば)と名付けられた女子教育機関が明治初期にはたくさんつくられたが,この石標の示す女紅場は,女子に高等教育を施す学校である。 」

5.水力発電事業発祥之地(左京区粟田口鳥居町 [関西電力蹴上発電所内])
「水力発電事業発祥之地」の碑は、関西電力蹴上発電所の敷地内に建立されている。
間近で見ることは出来ないが、隣接する京都市国際交流会館駐車場南側の塀越しに見ることができる(注1)。
(注1)関西電力蹴上発電所は事前予約で見学することができる。
(注2)IEEE(The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc.)
(注3)IEEEマイルストーン:IEEEが電気・電子技術やその関連分野における歴史的偉業に対して認定する賞

【水力発電事業発祥の地 蹴上発電所のあゆみ】
 京都 の誇りである琵琶湖疎水は、明治23年(1890)年に5年の歳月をかけて完成しました。この琵琶湖疎水は、滋賀県大津市の琵琶湖取水地点から、京都市伏見区で一級河川濠川となる地点までの約20kmを流れています。
疎水は、運河としても利用された「第一疎水」、第一疎水とほぼ同じ取水地点から全線トンネルを流れ、蹴上付近で合流する「第二疎水」及び、蹴上付近から分岐して北白川に至る「疎水分線」からなっています。
 明治2(1869)年、東京遷都が行われ千年間津続いた都の座をゆずることになりました。以来、市民は意気消沈、景気は衰退とまさしく町中の灯が消えたような状態であったと言われてす。 。
 このような状況の中、明治14(1881)年、第3代京都府知事 北垣国道 は、京都の復興と近代化推進のための大きな柱として琵琶湖疎水工事を計画しました。明治18(1885)年、疎水工事は着工されましたが、この工事を担当したのが、工部大学校(現在の東京大学工学部)を卒業したばかりの青年技師  田辺朔郎 でした。
田辺朔郎は、工部大学校土木科在学中に、学術調査のため京都へ出張を命ぜられた時、たまたま京都で疎水事業が計画されているのを知り、独自の立場から現地調査を行い、これを主題とした卒業論文「琵琶湖疎水計画」をまとめました。このことが北垣知事に認められ、直ちに京都に呼び寄せられ、世紀の一大工事をまかされることになりました。
(続きは、第一~第三期蹴上発電所の案内文をご参照ください)
水力発電事業発祥之地
水力発電事業発祥之地
IEEE マイルストーン
第2期 蹴上発電所
第2期 蹴上発電所
蹴上発電所の歩み
第1期 蹴上発電所
第2期 蹴上発電所
第3期 蹴上発電所
導水管
史跡 琵琶湖疎水
田辺朔郎博士像と顕彰碑
田辺朔郎博士像
解説版
インクライン
運輸船を乗せる台車
インクライン・運輸船 解説
インクライン運転の仕組み
琵琶湖疎水
南禅寺 水路閣
6.本邦最初鉄筋混凝土(鉄筋コンクリート)橋(山科区日ノ岡堤谷町)
本邦最初鉄筋混凝土橋
日本最初の鉄筋コンクリート橋
日本最初の鉄筋コンクリート橋(11号橋)
日本最初の鉄筋コンクリート橋( 11号橋)
解説版
第3トンネル 扁額文字「過雨看松色」
【解説板から抜粋】
 琵琶湖疏水は、明治維新で都が東京に移り、活気を失っていた京都の復興を目指して、明治18(1885)年に建設を始め、明治23(1890)年に第一疏水が完成しました。
 眼前の第三トンネル入口付近には、明治36(1903)年7月、日本初の鉄筋コンクリート橋といわれる第11号橋が試造されました。この橋の鉄筋は専用の材料がなかったため、疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されています。鉄筋コンクリートのの技術は、のちに第二疏水などの土木工事に生かされました。

7.電気鉄道事業発祥地 (下京区東塩小路町)
日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した。即ち明治28年2月1日京都電気鉄道株式会社は
東洞院通り七条下がる鉄道踏切から伏見下油掛通りまで6キロの間に軌道を敷き電車の運転を始めた。
この成功を機として我が国電気鉄道事業は漸次全国に広がり今日の新幹線電車にまで発展することに
なったのである。よってその80周年にあたり先人の偉業を讃えてこの記念碑を建てる。
府立図書館傍にて
8.日本最古の洋紙製紙場(右京区梅津大縄場町)
 梅津パピールファブリック製紙場跡
 梅津パピールファブリックは、京都府が東京遷都による産業衰退を懸念した明治天皇の御下賜金をもとに、
この地に明治5年10月ドイツ人レーマン兄弟の指導により建設に着手し、明治9年1月ドイツ式抄紙機を用いて、
操業を開始した我が国初の洋紙製造工場であります。桂川の水力を動力源として、京都の産業活性化のため
大いに活躍しました。
明治13年8月、磯野小右衛門に払い下げられ民営になりました。大正7年11月、表門と門衛所、一部の赤レンガを除いて全工場を焼失しました。

9.駅伝発祥の地(三条大橋東詰)
駅伝発祥の地
駅伝の碑(区間名)
【左側の碑】駅伝発祥の地
日本初の駅伝は、1917(大正6)年、京都三条大橋から東京上野不忍池までを23区間に分けて開催された。
2017(平成29)年4月29日はちょうど100年になる。今や国際的にも普及発展し、「EKIDEN」という語が 
世界共通の競技として認められるようになった。
駅伝発祥から100年を迎えたことを記念して、この地に記念碑を建立した。
 2017(平成29)年4月29日
 一般社団法人 京都陸上競技協会

 【右側の碑】駅伝の歴史ここに始まる
我が国、最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が大正六(1917)年4月26日、
28日、29日の三日間にわたり開催された。
スタートは、ここ三条・大橋、ゴールは、東京不忍池の博覧会正面玄関であった。

【右側の碑の下に区間名が書かれている】
京都・三条大橋~草津~水口~北土山~亀山~四日市~長島~名古屋~知立~藤川~豊橋~新居~見附~
掛川~藤枝~静岡~興津~吉原~三島~箱根~国府津~藤沢~川崎~東京・上野不忍池

10.囲碁「本因坊」発祥の地(中京区藤木町 寺町通夷川上ル)
寂光寺
寂光寺 駒札
駒札には、
「この寺町通の名は、天正十七年年(1989)頃豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が集められたことに由来する。寂光寺もその一つで、別名を久遠院ともいい、通りをはさんだ西側の町名『久遠院前町』にその名残が見られる。
寂光院の塔頭「本因坊」に住まいしていた僧侶の日海(1559~1623)は、信長・秀吉の時代から囲碁の名人として名高く、江戸幕府が開かれると、徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、本因坊算砂と改名し、幕府の碁所を任された。
算砂は江戸に屋敷を拝領した後も、寺町の本因坊を本居として、春に江戸に下り、年末に京に戻る暮らしをしていた。
以降、本因坊の名は世襲で受け継がれたが、二十一世の秀哉は、真の実力者が本因坊を名乗るべきとしてその名跡を日本棋院に譲り渡し、昭和十一年(1936)、今なお続く選手権制の『本因坊戦』が誕生した。
宝永の大火(1708)で罹災した寂光寺は現在、仁王門通東山西入に位置し、算砂愛用の碁盤や算砂直筆の囲碁狂歌などの貴重な資料を蔵している」
 また、寂光寺の駒札には、
「前略、当寺二世の日海は、寺内塔頭の本因坊に住み、本因坊算砂と号した。算砂は、碁技を仙也に学び、当時敵手なく織田信長から『名人』の名を贈られた。次いで、豊臣秀吉、徳川家康に碁を教え、以降、本因坊の名称は、碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することとなった。二世算悦、三世道悦を経て四世道策の時、本因坊は当寺から江戸に移った。後略」。

11.清水焼発祥之地(東山区五条橋東 若宮八幡宮境内)
清水焼発祥之地
五條坂
由緒書
若宮八幡宮
由緒書きには、
「昭和二十四年(1949)に右の相殿に陶祖神の椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が合祀されたことから、『陶器神社』としても知られている。中略。毎年八月七日から十日までの四日間、若宮祭とともに陶器祭が行われ、五条坂一体で盛大に開催される陶器市は多くの人でにぎわう。また、昭和六十年(1985)には若宮八幡宮前に、五条坂の先人及び陶器祭運営功労者への感謝の意を込めて、『清水焼発祥之地 五條坂』の記念碑が建立された」

12.小倉餡発祥の地(右京区嵯峨小倉山緋明神町)


小倉餡発祥の由来の駒札が落柿舎前の原っぱ(畑?)の北西角に建っている。

小倉餡発祥の由来
 日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間もなくの八百二十年頃の ことであります
 当時, 京のこのあたり小倉の里に亀の子せんべいを作って いる和三郎という人がいて, 八百九年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し, それに御所から 下賜された砂糖を加え, 煮つめて餡を作りました これを毎年御所に献上しました こう した菓子は極めて高価で珍しいものでありましたので 一般の庶民の口には入りませんでしたがこの和三郎 の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され 江戸時代には茶道の菓子となり 又一方では祝飯 として ハレの料理にも加えられるようになりました
 更に空海は中国の亀の甲煎餅の技術も伝授 し京菓子の技術は日本の和菓子の源流となりました
 和三郎は承和7年2月2日(840年)に なくなりましたが その子孫並びに諸国同 業の人びとがその功績をたたえて 小倉中字 愛宕「ダイショウ」の里に 一社を建て朝廷 の允許を得て 屋号が亀屋和泉であり ましたので 和泉明神としてまつられるよ うになりました
 その後 年月を経て明神の社は兵火に 焼かれ子孫も絶えて 只古老の伝承として 小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられています
津田左兵衛(六代) 記

(津田左兵衛氏は、京都土産の定番「八つ橋」の井筒八ツ橋本舗の六代目当主だそうです)。

なお、 「小倉餡発祥之地」碑が「二尊院」境内にあるそうです。

13.八ツ橋発祥之地(左京区聖護院山王町 熊野神社境内)
八ッ橋発祥之地
 西尾為治 像
八ッ橋発祥之地 解説板
熊野神社
本殿
由緒書
熊野神社に隣接する「本家西尾八ツ橋」
「聖護院八ツ橋」
提灯
「八ツ橋発祥之地」は熊野神社境内にある。駒札には、
「西尾為治は、明治十二年(1879)山城国愛宕郡 聖護院村の八ツ橋屋に生まれ、以来昭和三十七年(1962)1月に
永眠するまで、八十四年の生涯を八ツ橋の発展のために心血をそそぎました。後年中興の祖と言われ、
元禄からの古法を基調に改良に改良を重ね"京に八ツ橋あり"とその名声を拡げました。
平安建都千二百年を記念し、八ツ橋発祥の地『聖護院の森』に石碑並びに銅像を建立しました。」
熊野神社
なお、「八つ橋」は元禄二年(1689)頃に誕生したようです。
現在は、「本家西尾八つ橋」「聖護院八つ橋」「井筒八つ橋本舗」「元祖八ツ橋 西尾為忠商店」「おたべ」「nikiniki」など多くのブランドがあります。

14.京都特産すぐき発祥之地(北区上賀茂土門町 穂根束児童公園内)
「すぐき」は、千枚漬、柴漬などとともに京都を代表する漬物。
漢字では「酸茎」と書く。 名前から大体想像がつくと思うが、酸味が特徴の乳酸発酵漬物だ。
この石碑の北東500m、深泥池の西にある「秋葉神社」の縁起に「すぐき」の名の由来が書かれている。
それによると「(前置きは省略)]村の長が漬物の茎を一本試食しました所『酸い茎や』と云いました」。
「酸い茎」=>「くき」=>「すぐき」だそうです。わかりやす~い。
京都特産すぐき発祥之地
裏面
秋葉神社
すぐきの神様秋葉神社の縁起
【京都特産すぐき発祥之地】の碑の裏には、
京都市北区上賀茂ハ京都特産すぐき発祥ノ地デアル。近時、当地区ニ於ケル各種ノ蔬菜栽培ノ機能ハ喪失ヲ余儀ナクサレルニ至ツタガすぐき菜栽培地トシテハ先人ノ志ヲ継承シテコレヲ確保シ、且ツ高度ナル加工ノ技術ヲ保有シテイル。すぐき菜ハ三百有余年ノ栽培ノ歴史ヲ有スル。上賀茂神社ノ社家某ガ加茂川原ニ自生セル植物、或ハ御所又ハ上賀茂神社ニ寄進セラレタル蔬菜ノ中ヨリすぐき菜ノ原種ト推定セラルルモノヲ入手シテ、之ノ栽培ヲ始メタコトヲ以ツテ其ノ起源トスル。其ノ後極メテ小規模ニ且ツ趣味的ニ限ラレタ社家ノ人々ノミニヨリ栽培ガ続ケラレテキタガ、明治以降ハ大イニ普及栽培サレ、其ノ後農家ノ絶エザル努力ニ依リ京都特産すぐきノ名称ハ世上ニ喧伝サレ、ソノ独特ナル加工技術ト共ニ比類ナキ農産物トシテ今日ニ至ルマデ伝エラレタ。農業上ノミナラズ人文地理的ニモマコトニ銘記ス可キデアル。
                昭和四十八年十月京都府立大学農学部教授   農学博士 高嶋四郎 記
と書かれている。

15.阿国歌舞伎発祥地(南座西側)
  南座の西側、川端通りに面して建立されている。
慶長八年(1603年)この辺り鴨河原において歌舞伎の始祖出雲の阿国がはじめてかぶきおどりを披露したと伝えられております。
「出雲の阿国」像は四条大橋東詰北に建立されている。
「出雲の阿国」像
「出雲の阿国」解説版
出雲の阿国
 1603年(慶長八年)、出雲の阿国はこの四条河原町で先鋭的な伊達男風の扮装で「かぶきおどり」を披露、関ヶ原合戦後のすさんだ世に都人を驚かせ絶大な喝采をあびました。
 歌舞伎の元祖といわれている阿国の出生は不詳ですが、出雲大社の巫女で一座を率いて勧進のため入洛、北野天満宮の定舞台で名声を得て各地を巡業しその人気が広まりました。
 江戸時代に入り、風紀を乱すと女歌舞伎禁止令が出て、男が女形を演じるようになり今日の歌舞伎に発展しました。
 阿国は晩年出雲に帰り、尼僧になって生涯を終えたと伝えられ、その墓は島根県大社町と京都の大徳寺高桐院にも存在しますが、伝説の域を出ません。

16.石門心学発祥之地(中京区塗師屋町)

17.日本映画発祥の地(中京区備前島町 元立誠小学校)
 

18.京都電信電話発祥の地(中京区梅忠町)
 京都が日本初ではありませんが、京都における最初の場所です。 
19.学習院発祥の地(京都御苑内)
京都御所の東側にあります。

一七七九(安永八)年、閑院宮家出身で皇位を継いだ光格天皇は、学問を大切にし、公家の教育振興に取り組みました。次の仁高孝天皇在位中の一八四五(弘化ニ)年、幕府から学習所の設置が認められ、孝明天皇在位中の一八四七(弘化四)年、この地に開講しました。公家や御所に勤める役人たちとその子弟に漢字と和学を教えることとし。一八四九(嘉永ニ)年、孝明天皇より「学習院」の額(勑額)が下賜され校名がさだまりました。(後略)

20.扇塚(下京区下材木町)
 「扇」発祥の地

21.いけばな発祥の地(六角堂) (中京区堂之前町)
 六角堂の開基は聖徳太子。
 四天王寺建立の用材を求めてこの地を訪れたとき、霊告によってこの地に御堂を建て、
 守護仏の観音像を安置したのが始まりだと伝えられている。
 六角堂の裏手には聖徳太子が身を清めたといわれる池があり、
 池の傍には僧侶の住坊があったので「池坊」と呼ばれるようなった。初代の住職は遣隋使の「小野妹子」。
 朝夕に仏前に花を供えていたのが「いけばな」の起源とされる。
 代々の住職を務める池坊は、仏前に花を供える中で創意工夫を加え、
 室町時代に「いけばな」として成立したといわれている。             
おまけ へそ石(京都の臍)

おまけ へそ石(京都の臍)

22.日本気学発祥地(赤山禅院) (左京区修学院開根坊町)
  気学とは方位にかかる占術のようです。
  赤山禅院は京都の北東に位置し「(皇城の)表鬼門」です。   


23.刃物祥地(刃物神社) (東山区祇園町北側)
  「刃物發祥地」碑は八坂神社境内にある「刃物神社」にあります。
      


24.粟田焼發祥之地(粟田神社) (東山区粟田口鍛冶町1)
 「粟田焼發祥之地」碑は「粟田神社参道を入ってすぐの処」にあります。   


25.みたらし団子発祥の地(下鴨神社) (京都市左京区下鴨泉川町)
 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)(下鴨神社)境内の井上社(別名御手洗[みたらし]社)の駒札には、
 「土用になれば御手洗池から清水が湧き出ることで七不思議の一つにも挙げられ、池底から
  自然に吹き上がる水泡をかたどったのがみたらし団子の発祥と伝えられている」
 と書かれている。
     


25.軟式野球発祥の地(旧 京都市成徳中学校)(京都市下京区繁昌町)
 他に 、「栄養給食先駆けの地」の碑もある。  
         


「栄養給食先駆けの地」碑

 三条小橋の近くに「高瀬川 生洲(いけす)」の解説板が建っています。 
 江戸時代中期頃から、高瀬川の二条から三条の両岸には、生洲料理店屋が軒を並べていたそうです。
 なんと女人禁制で男性だけの清遊の場だったとか。   



28.日本近代医学発祥之地(京都市中京区因幡町)
 かって六角獄舎(三条新地牢屋敷)があった地に「日本近代医学発祥之地」碑が立っている。
 なぜ獄舎(今の刑務所)が「近代医学発祥之地」なのか?
 実は、江戸時代中期の医者「山脇東洋」が人体解剖を行った地なんだそうだ。
 江戸の杉田玄白による人体解剖の17年も前の話だ。
 杉田玄白は解体新書で有名であるが、「山脇東洋」のことははあまり知られていない。

 幕末、六角獄舎には平野国臣をはじめとする多くの尊王攘夷派の志士たちが囚われていた。
 禁門の変(蛤御門の変)に伴う大火で六角獄舎にも火の手が迫ってきた。
 脱走を恐れた官吏たちは、まだ判決も出ていない志士たちを片っ端から処刑したという。
 「日本近代医学発祥之地」碑の隣には「勤王志士平野国臣外数十名終焉之地」が立っている。
 結果的には、火の手は六角獄舎までは回ってなかった。何という悲劇。



 11.小倉餡発祥の由来でも紹介したが、嵯峨小倉の里の住人「和三郎」氏は「小倉餡」だけでなく
 「煎餅」も創り出したようだ。
 天龍寺北の有職菓子御調進所「老松」さんの店頭に「嵯峨小倉の里 煎餅発祥の地」の
 駒札が建っている。
「帰朝した。」は「帰朝した、」の誤り?


30.少林寺拳法 根本道場発祥地(京都市上京区行衛町)
 少林寺拳法の発祥地は香川県多度津町だそうで京都ではありません。
 中国で武術を学んで帰国した宗道臣(そう どうしん)氏が
 1947年に多度津町に小さな道場を開いたのが始まりだそうです。
 京都においては、昭和36年(1961年)、法輪寺(通称[だるま寺])境内に根本道場が建立され、
 創始者宗道臣自らが京都別院として道場を開いたのが始まりだそうです。





No31~は「京都が日本初 (発祥の地) その2」をご参照ください。