2020年7月26日日曜日

Summer Cut

Summer Cut


長かった梅雨も間もなくあけそう。いよいよ夏本番だ。
ということで、我が家の愛犬も「Summer Cut」にしてもらった。
8mmのカットでつるつる坊主に。チョットやり過ぎかな?。
とてもToy Poodleには見えない。
高所恐怖症? テーブルの上でフリーズ。尻尾も下げたまま。
撮影後散歩に。
東の空に綺麗な虹がかかっていた。

2020年7月24日金曜日

これを「第二波」と言わずして何と言う

これを「第二波」と言わずして何という



東京、大阪の例にもれず京都でも再び感染者の数が増えてきた。
Yahooの「新型コロナ最新情報」の「京都府版」によると7月23日23時55分現在の新規感染者の状況は以下の通り。
https://hazard.yahoo.co.jp/article/covid19kyoto
出典:Yahooの「新型コロナ最新情報  京都府版」より

このグラフ、どこからどう見ても大きな山が2つありますよね。
3月下旬から5月中旬までを第一の山(波)だとすれば、6月中旬ごろから始まる山(波)は誰が見ても第二の山(波)だ。
しかも第二の波の方が大きそうだ。

だが、誰も「第二波だ」、「第二波が来ている」とは言わない。
言わないのではなく、(分かっていても)「言えない、言いたくない」のだろう。
この期に及んでも「重症者は増えていない」などと能天気なことを宣っている輩もいる。

第二の波、今後更にピークが高くなるのか減少に向かうのか「神のみぞ知る」わけだが
折しも「Go To トラベル」とやらも始まっており、直ぐに減少に向かうとは考えづらい。
これで感染拡大が加速したら一体誰が責任を取るのだろう?。
「だんまりを決め込まないで、責任者出てこい(ぼやき漫才師「人生幸朗」風に。古~)。

もはや当てに出来るのは「個人の良識ある判断と行動」だけだ。
「踊らされることなく、自分の身は自分で守れ」ということに尽きる(と思う)。
お遊びで、Excelの多項式近似を使ってみた(データ:府内の感染状況)。
(感染者ゼロの日は外したので上のグラフとは一致しない)
6次近似 R2=0.7318
 5次近似 R2=0.7318
4次近似 R2=0.6997
3次近似 R2=0.5828

2020年7月5日日曜日

大蛇ヶ池と灌田記念碑の関係

大蛇ヶ池と灌田記念碑の関係


20年ほど前まで某ニュータウンに住んでいた。
アクセスにやや難があったが、緑が多くニュータウン内を川が流れるなど環境面では申し分なかった。
近くに大きな池(大蛇ヶ池)があり「大蛇ケ池公園」として整備されていた。

大蛇ケ池」、何ともおどろおどろしい名前だが、
「池に蛇が住む」という伝承はよく聞く話で、名前の由来に多少の興味はあったが、
当時は深追いすることもなく子供を連れてよく遊びに行ったものだ。

あれからうん十年(綾小路きみまろ風に)。
つい最近、「大蛇ケ池」から南東650mほどの所に「灌田記念碑」が建立されているのを偶然見つけた。
(悪い癖で、駒札や石碑を見かけるとついつい立ち止まって見てしまう)
読んでみると、何と「・・大蛇ケ池ト命名ス・・」と書かれているではないか。
大蛇ヶ池」と「灌田記念碑」が繫がった。
「大蛇ヶ池」は灌漑用の人工の池だったのだ!!
灌田記念碑は、農業用ため池「大蛇が池」の建設を顕彰する記念碑であった。
灌田記念碑
灌田記念碑 全景
灌田記念碑 裏面
そこには「大蛇ケ池」の成り立ちが書かれていた。要約すると、
「明治16年に大旱魃に見舞われた。そこで旱魃対策として、地主が協議し潴水池開墾を決めた。
 百難をしりぞけ100年ほど前の大正6年(1917年)に起工し2年後に竣工した。
 そして『大蛇ヶ池』と命名した」。
(潴水池[ちょすいち]:[農業用ため池]のことか?)。

何故「大蛇ヶ池」と命名したのか、その理由については書かれていないが
「大蛇は雨をよぶ」という言い伝えに由来しているのだろう。

「大蛇ヶ池」、今どうなっているのだろう?
20数年ぶりに「大蛇ヶ池公園」を訪ねてみた。
大蛇ヶ池公園
大蛇ヶ池
大蛇ヶ池公園(1980年完成)
大蛇ヶ池 東側より
大蛇ヶ池 西側より
辨財天
辨財天
辨財天
大蛇ヶ池 灌田記念碑
祠の中の御札の文より
辨財天/大蛇伝説
風景は昔のままだ。
ただ、辨財天の周りには幾つかの説明板が掲示されていた(昔はなかった?)。
そこには灌田記念碑の銘文もあった。
また祠宇を建て水神を勧請して「未来永劫大蛇ヶ池の静穏を願った」とも書かれている。
辨財天(水神)は、元々はヒンドゥー教の「の女神」である。 
「大蛇伝説」も書かれている。このような言い伝えをもとに村人たちは「大蛇ヶ池」と命名したに違いない。
灌田記念碑 銘文(読みやすいよう片仮名は平仮名に変換。句読点も追加した)

乙訓郡大原野村字石見上里区戸数百余農を以て専業とす。
古来水利便ならす灌漑たために寝食を忘れしこと尠からす、
明治16年の大旱に當りてば殆と人力の極を盡して而も秋實を見ること能はす、徒らに天を仰いて痛恨せるのみ。
爾後西巒の伐採は當區唯一の水源で枯渇せしめ加ふるに、區内の丘陵は悉く孟宗畑と化し保水力を失ひくるを以て旱害を蒙ること更に甚し。
地主相會し潴水池開墾の議を決し、耕地整理法に基き組合長以下役員15名を選任し、百難を排け大正6年起工約2年にして竣工し大蛇ケ池と命名す
水量実に400萬立法尺灌漑60町歩余に及ふ此に至りて旱害初めて去り區民其の業に安んす。
今茲に小作團員相謀り碑ふを建て以て此洪徳を記念せんとし余に撰文を嘱す余其の美擧を賛し書して以て之を與ふと爾云

京都府乙訓郡長従七位福田増藏撰  能村仲襄書

祠の中の御札の文より

石見上里區旱を患ふること特に甚し。
盛夏雲なきこと旬餘にして水田忽ち蟻螻の巷と化す惨哉。
維時大正六年大蛇ケ池を開く。
水量四百萬立方尺、田園六十町歩を潤し農家漸く其堵に安んす。
茲に祠宇を建て恭しく水神を勧請す。
仰き願くは神霊冥助垂れて永劫本池の静穏を擁護せよ。
                          敬白

妙法白美弁財天