2019年11月24日日曜日

鬼門の魔除け(鬼門封じ)

鬼門の魔除け(鬼門封じ)


鬼門(きもん)という言葉、ご存じない方も多いだろう。
てっきり死語だと思っていたが、ドッコイ今も根強く生き残っていた。

鬼門とは「北東の方角」のことで、その名の通り「鬼(邪気)の出入りする方角」。
鬼門には裏表があって、表鬼門が「北東」の方角、裏鬼門が「南西」の方角。
その昔中国から伝わり、その後日本では不吉な方位として広まったようだ。

「鬼(邪気)の出入りを封じるための鬼門の魔除け」、愛犬との散歩コースでもちょくちょく見かける。
様々なパターンがあるが、
基本は敷地の北東の隅を10~30cm程度の正方形の枠で囲い白石を敷き詰めたものが多い。
中には、葉に鋭い棘のある柊(ひいらぎ)や南天(難を転ずる)を植え込んだものもある。
(古くから、表鬼門(北東)に柊、裏鬼門(南西)に南天の木を植えると良いとされる)

近所ではないが、街中で見かけたもの。
白い石に意味があると思っていたが黒い石を使っているものもあり、白黒つけ難し。
中には鳥居が建っているものもある。
コンパクトで黒い石
念のためか鳥居も建ててある
鬼門の魔除け、その最たるものは京都御所の「猿ヶ辻」で異論はあるまい。
御所の北東角の塀だけ直角ではなく凹んでいる。何故凹んでいるのか知ってました?
鬼門である北東の方角から、鬼が入ってこないようにと「角(かど)」を取っているのだ。

「『角』が無くなるので鬼門自体が消滅し、鬼が入ってくる門の存在自体を消すことが出来る」
との考え方もあるようだが、
個人的には「角」は「ツノ」と読ませ、「鬼の角(ツノ)を取る」と考えた方が面白い。
京都御所 猿ヶ辻
「猿ヶ辻」の案内板には次のように書かれていた。
「背後の御所の築地塀が折曲がった部分の屋根裏に、一匹の木彫りの猿が見られます。
猿ヶ辻の名前はここから名づけられました。
烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿は、御所の鬼門を守る日吉山王神社の使者ですが、
夜になるとこの付近をうろつき、いたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたと言われています
(後略)。

暗くて分かりづらいが目を凝らしてよく見ると、烏帽子をかぶり御幣をかついだ猿が金網の中に見える。
裏鬼門の方角が未(ひつじ)申(さる)であること、また「災いが去る(猿)」 ということなのでしょうか?。

京都御所 「猿ヶ辻」の場所
猿ヶ辻 案内板
① 鬼門の見張り番 猿
② 鬼門の見張り番 猿
③ 鬼門の見張り番 猿
④ 鬼門の見張り番 猿

同じような猿は幸神社(さいのかみのやしろ)(上京区幸神町)でも見ることが出来る。
本殿の北東角だ。左甚五郎の作だと伝わっている。
(幸神社の主祭神は「猿田彦大神」)

また、赤山禅院(左京区修学院開根坊町)の拝殿の屋根の上にも金網に入れられた猿が鬼門を守っている。
右手に御幣,左手に鈴 (旧 神猿)
P.S.
 紅葉狩りも兼ねて久々に赤山禅院を訪れた(2021年11月)。
 鬼門を見守っていた神猿は新旧交代していた。
新任の神猿
(右手に神の依り代の御幣、左手に邪気をはらう神楽鈴)



 引退した神猿は猿小屋に鎮座し後身に作法を伝授するため拝殿に向き合っている。     
猿小屋
引退した神猿
説明版
 赤山禅院は、仁和四(888)年、天台座主安慧が師の円仁の遺命により創建された天台宗の寺院。
 本尊の赤山明神は、唐の赤山にあった道教の神・泰山府君(赤山大明神、陰陽道祖神)を勧請したもの。
 赤山禅院は、京の東北の表鬼門にあたることから方除けの神として崇敬されている。
 また裏手には鬼門方除之神を祀った金(こん)神社があり、日本気学発祥地の碑もある。
 (金神社の祭神は、忌避しなければならないと畏(おそ)れられている方位の神だそうです)
 神仏習合の地、ここでは全てを紹介しきれません。一度は訪ねておきたい寺院です。            
赤山大明神

由緒

皇城表鬼門

日本気学発祥地

金神社
鬼門方除之神

 幸神社も赤山禅院も御所から見て北東の方向に位置している。
 更に北東には比叡山延暦寺や日吉大社がある。猿は日吉大社の神の使いだ。

猿ヶ辻と同様の光景は、京都駅前の東本願寺でも見ることが出来る。
残念ながら猿はいない。
東本願寺
東本願寺」とくれば次は「西本願寺」。西本願寺の北東角、どうなっているのでしょうか? 気になりますね。

西本願寺の北東角には新選組ゆかりの「太鼓楼(たいころう)」が建っています。
(太鼓をたたいて鬼を追っ払うのでしょうか?)
太鼓楼すぐ南側の築地塀の角は凹んでいます。
西本願寺の北東角には「太鼓楼」が建っている
太鼓楼すぐ南側の築地塀 角は凹んでいる
太鼓楼 説明書き①
太鼓楼 説明書き②


【ほんと? それとも うそ?】
 鬼の絵を見ると「頭に角、虎柄のパンツ」が定番だ。
これは方位と関係がある?。
昔は方位に十二支をあてていた。
(北:子(ね)、東:卯(う)、南:午(うま)、西:酉(とり))。

鬼門の方位「北東」は丑(うし)と寅(とら)の間にあたる(艮)。
ここまでくればもうお分かりでしょう? 「丑(うし)角(つの)寅(とら)柄のパンツ」。
これって【ほんと? それとも うそ?】


【おまけ1】
 京都市内ではありませんが、
 京都府八幡市男山の「石清水八幡宮」の本殿石垣の北東角は切り取られているそうです。
 「石清水八幡宮」ご参拝の折には是非ご自身の目で確認してください。
「国宝 石清水八幡宮のパンフレット」を一部加工

【おまけ2】(「猿」つながり)
神社にはそれぞれ「神の使い」とされる動物がいる。
稲荷系の「狐」、天神(天満宮)系の「牛」、春日系の「鹿」、八幡系の「鳩」、・・・
「猿」は日吉(山王)系の神の使いだ。
をご参照ください。

比叡山延暦寺・日吉大社(滋賀県大津市)は平安京の北東にあたり、鬼門の魔除けの役割を担っていた。
その日吉大社の神の使い「神猿」が平安京の鬼門を見張っていたのだろう。
猿ケ辻、幸神社、赤山禅院の「猿」は日吉系の神猿だ(と思う)。
日吉系の神猿は、腕白なのか悪戯好きなのか、(金)網の中に閉じ込められている。

猿田彦神社(山之内庚申) (右京区山ノ内)
 地下鉄「太秦天神駅」の南に猿田彦神社がある。
 ここにも「神猿」が祀られているが、日吉系とは違い(金)網の中に閉じ込められていない。
 御幣を抱え神妙な顔つきで行儀よく本殿前に鎮座。
「見ざる、言わざる、聞かざる」の3神猿は本殿下に整列。
           
猿田彦神社(山之内庚申) 由緒(抜粋)
新日吉(いまひえ)神宮(東山区妙法院前側町)
 新日吉神宮はその名の通りバリバリの日吉系だ。
 永暦元年(1160年)、後白河法皇が比叡山東坂本の日吉山王七社(日吉大社)を勧請したのが始まりだそうだ。
 バリバリの日吉系に相応しく本殿前に2匹の神猿(こま猿?)が祀られており、何れも金網で囲まれている。
   
本殿に向かって右手

本殿に向かって左手

 神の使いである神猿は「神猿(まさる)(真猿)」と呼ばれている。
 「まさる」は「魔去る」、「勝(まさ)る」、「増(まさ)る」に通じる。 
 本殿前や本殿欄間にも安置されている。他にも、
 「」と呼ばれていたと伝わる豊臣秀吉(木下藤吉郎) を祀る「樹下(このもと)社」などもある(木下≒樹下)。                      

朝日神明社 猿田彦社(下京区下鱗形町)
 朝日神明社境内裏手に猿田彦社がある。
 2つの神石の横に「子供を抱いた猿」が鎮座。何とも微笑ましい姿だ。

 我思うに、2つの神石は猿田彦命と天鈿女命(アメノウズメノミコト)を象徴しているのではなかろうか?
 猿田彦命は、天孫降臨に際し一行を地上界へ導く道案内をした地上界の神で
 天鈿女命は、天岩戸にこもった天照大御神の気を引くために踊った天上界の女神で天孫降臨に随行している。
 後に二人は結婚するのだが、子供を抱いた猿はそのシンボルではなかろうか?        


 朝日神明社は貞観年間(858~876)に丹波国桑田郡穴生村(現在の亀岡市)に造営され、
 元亀元年(1572)に現在地に遷座されたという。
 祭神は天照大御神。かっては広大な社域を有しており「幸神の森」と呼ばれていたようだ。
 末社として、竈神社、稲荷社、祓川社、恒情神社、人丸社、飛梅天神、八幡春日社、猿田彦社の
 八社があったが、今は猿田彦社(幸神社)ただ一つが残っている。       


大豊神社 日吉社(左京区鹿ケ谷宮ノ前町1)
 大豊神社の日吉社にも「猿」が「狛ざる」として祀られている。
 金網に閉じ込められてはいない。
 大豊神社は「狛・・」の多さが売りのようで他に「狛へび」「狛ねずみ」「狛とび」などを
 見ることが出来る。
       
       
右:日吉社(狛ざる) 左:愛宕社(狛とび)
右:日吉社(狛ざる) 左:愛宕社(狛とび)


 「小野篁(おののたかむら):閻魔大王の補佐役」が冥界への入り口として使っていたという
冥土通いの井戸」で有名な「六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)」にも猿がいる。


神の使い(神使)と狛✖ シリーズ
もご参照ください。