2017年9月18日月曜日

近所の歴史探訪~「西国街道(その1)」編~

近所の歴史探訪~「西国街道(その1)」編~


近所シリーズ第六弾。
近所というには少し離れているが今回は「西国街道」を探訪してみた。
西国街道は、 京都(東寺口)から西国(下関、九州まで)へ至る江戸時代の重要な幹線道路。

紀貫之の土佐日記によれば、承平5年(935年)2月、土佐守の任を終え帰京の途中、
「山崎津(その3で紹介)」にから西国街道を沿って「島坂」(現向日市上植野町御塔道(おとうみち)付近)を
経由したことが確認されている。西国街道は平安時代には既に整備されていた由緒ある街道だ。
山崎津跡
御塔道
御塔道
あくまでも「近所」という事で、隣市の向日市から長岡京市を経て大山崎町まで(京都府内)を探訪した。

沿線には、「長岡京」などを始めとして史跡が多く、
西国街道そのものは勿論のこと、街道から少し離れた史跡も巡ってみた。
見所が多いので、3回に分けて報告。
 1.西国街道(その1) 向日市内
 2.西国街道(その2) 主として長岡京市内
 3.西国街道(その3) 主として大山崎町内

始点は、JR東海道本線 向日町駅から西南約150mにある「西国街道 深田橋 光明寺道の大道標」。
①西国街道 深田橋 光明寺道の大道標
深田橋の親柱には「西国街道」の文字が
いざ出発。

【①[深田橋 光明寺道の大道標]から[物集街道との合流点]】
JR向日町駅から少し西南に行くと深田橋がある。
橋のたもとに「光明寺への道」を示す、大きな道標が建っている。
明治33(1900)年に福岡県の人々の寄付によって建立されたのだとか。
「光明寺」は、少し先の「五辻」(後述)を西に行ったところにある。紅葉の綺麗な寺だ。
阪急「東向日町駅」の踏切を超えるとすぐ左手に「西国街道 築榊講(つきさかこう) 常夜燈」がある。
左方向が西国街道だ。石畳の道路でよく整備されている。途中幾つかの道標が立っている。
少し坂になっているが、登りきると物集女街道と合流する。
右角に「向日町道路元標」がある。この辺りは江戸時代の町場「向日町」で賑わっていたようだ。
向かい側には京都府有形文化財に指定されている「須田家住宅」がある。
何でも江戸時代から醤油屋を営んでいたそうだ。
No 見所 One Point
光明寺道の大道標 高さ3m68㎝余の大きな石標。正面に「浄土門根元地粟生光明寺道」、左側面に「是より西三十町」(1町は約109m、30町は約3.3㎞)と刻まれている。
西国街道 築榊講(つきさかこう)常夜燈 天保13年(1842)に伊勢参りの講の一つ、築榊講の人々によって建立された。
案内板 向日町と西国街道

道標 道標④~⑥
物集女街道との合流点 写真正面は、筍と松茸で有名な「神崎屋」。
向日町道路元標 大正9年(1920年)に設置された道路元標。町の中心部に設置され、道路の起点として市町村間の距離標示の原点となったもの。
Google Mapには掲載されていない
須田家住宅 京都府有形文化財。江戸時代より松葉屋の屋号で主に醤油屋を営む。
道標 須田家住宅の前にある道標。最近のものらしい。

①光明寺道の大道標
②西国街道 築榊講 常夜燈
③案内板(向日町と西国街道)
④常夜燈そばの道標
⑤道標
⑥道標
⑦物集女街道との合流点
⑧向日町道路元標
⑨須田家住宅
⑩須田家住宅前の道標
須田家の解説パンフレット1
須田家の解説パンフレット2

【②[物集街道との合流点]から[五辻]
合流点を左に進む。向日町商店街の看板が目に付く。通りの名は「アストロ通り」。
([Astro(宇宙)]、随分ハイカラな名前だが近くの向日神社境内にある「天文館」絡みで命名か?)

合流点から直ぐ左手に「富永屋」がある。江戸時代から戦後しばらくまで宿屋・料理屋を営んでいたとか。
貴重な町屋だ。
右手には向日神社の鳥居が見える。鳥居の左には「説法石」。
日像上人がこの石の上から人々に説法したと伝えられている。
向日神社の本殿は国の重要文化財だ。左手には「向日市 天文館」、神社の裏手には「増井神社」、
右手の勝山公園内には「元稲荷古墳」がある。
向日神社から目と鼻の先に「五辻」がある。
「五辻」は文字通りの五叉路、左から順に「長岡京跡へ、西国街道、西新道、善峰寺・光明寺へ」となる。
角には「五辻の常夜燈」が立っている。
No 見所 One Point
向日商店街 
アストロ通り
向日商店街とアストロ通りの看板
富永屋 江戸時代から戦後しばらくまで代々宿屋・料理屋を営んでいたそうだ。
江戸時代中期に建てられた貴重な町屋。写真は建物と壁の由緒書きを合成。
向日神社鳥居 向日神社は718(養老2)年に創建されたと伝えられ、向日神、火雷神、玉依姫命、
神武天皇が祀られている。
説法石 日像上人がこの石の上から人々に説法したと伝えられている。
向日神社本殿 国の重要文化財に指定されている。明治神宮本殿のモデルになったとか。
向日市天文館 平成5年にオープン。プラネタリウム、望遠鏡、展示室‥。
増井神社 150年以上前、この神社の井戸の水で浪速の大火をおさめたと伝わる
元稲荷古墳 3世紀末ごろの前方後方古墳。全長約94m。後方部頂上に配水池施設があり些か違和感を感じ
五辻
五辻常夜燈
文字通りの五叉路。角に五辻の常夜燈が立っている。近くに案内板もある。
慶応元年(1865)に建立された。左から順に「長岡京跡、西国街道、西新道、善峰寺・光明寺」へ
続く道となる。

⑪向日商店街とアストロ通りの看板
⑫富永屋
⑬向日神社
⑭説法石
⑭説法石(を上から見る)
⑮向日神社 本殿
向日神社の解説パンフレット1
向日神社の解説パンフレット2
⑯向日市 天文館
⑰増井神社
⑰増井神社の井戸
⑱元稲荷古墳
⑱元稲荷古墳後方部の配水池施設
元稲荷古墳の解説パンフレット1
元稲荷古墳の解説パンフレット2
⑲五辻
⑲五辻の常夜燈
⑲五辻の常夜灯 案内板

【③[五辻]から[長岡京跡]
進路を左にとって少し寄り道。今回の目玉の一つ「長岡京跡」を探訪してみよう。
長岡京は、平城京のあと平安京に移るまでの僅か10年間の短命の都。

五辻を左に曲がると直ぐに「南真経寺」がある。少し先に大極殿通との交差点。
交差点を左に進むと「大極殿公園」、長岡京の大極殿小安殿のあったところだ。
交差点を右に進むと「朝堂院公園」、朝堂院西第四堂、南門、翔鸞桜などがあったところ。
共に公園としてよく整備されている。朝堂院公園には案内所もあり色々な資料も置かれている。
「史跡 長岡宮 復元・体感」ができる「AR長岡京というサービスがあり長岡京へタイムスリップ出来る。

大極殿通との交差点に戻って、阪急京都線のアンダーパスを抜けると直ぐ左手に「向日社芝斎場」。
敷地内に小さな社ある。反対側の右手に進むと長岡京の「築地跡」がある。
地上に残された長岡京唯一の遺構だそうだ。

元の道に戻って2つ目の交差点を左に行くと「北真経寺」 、すぐ隣が「内裏公園 内裏内郭築地回廊跡」だ。
再び元の道に戻り、JR東海道線を潜り、信号のある交差点を左に行くと「向日市温水プール」がある。ここに長岡京の「東院跡(東院公園内)」がある。
角に面白いモニュメントがあった。
この角を左に曲がり再びJR東海道線を潜り出口直ぐの道を右に進むと
「鶏冠井かしの木公園」がある。「春宮坊跡」だ。 
史跡の場所については、朝堂院公園内の案内所などで入手するといいだろう。
また夫々の史跡には詳しく解説された案内板が用意されている。
全ては紹介しきれないので是非自分自身の目で確認して欲しい。

少し寄り道しすぎた。急いで本題の西国街道「五辻」まで戻ろう。
No 見所 One Point
南真経寺 正式名称は日蓮宗「鶏冠山真経寺」。日蓮の孫弟子「日像」が鶏冠井村の全村民を法華経に改宗させたとか。
江戸に僧侶の学問所(檀林)を開設するにあたり南北両真経寺に分かれた。
大極殿公園   大極殿、小安(後)殿跡。国の史跡に指定されている。のぼり旗を立てる「宝幢」が復元されている。
天皇皇后両陛下行幸啓記念碑もある。
朝堂院公園

長岡宮第一発見場所
朝堂院西第四堂跡、南門跡、翔鸞桜跡。朝堂院公園案内所があり様々な資料やパンフレットが
用意されている。建物自体が復元されているわけではないが、「史跡 長岡宮 復元・体感」ができる
AR長岡京」というサービスが実施されてる。
スマホを使って「いにしえの都へタイムトリップ」だ。関心ある方は「AR長岡京」で検索。
なお、公園東側の民家前に長岡宮朝堂院会昌門跡の碑が建っている。
ここが長岡宮第一発見場所である。
向日社芝斎場 向日神社「鶏冠井祓所」。
築地跡 長岡宮の役所を囲む塀の跡。地上に残された唯一の遺構。
国の史跡に指定されている。
北真経寺 江戸に僧侶の学問所(檀林)を開設するにあたり南北両真経寺に分かれ、
かっての鶏冠井興隆寺の一角に移転したのが北真経寺。日像上人像が安置されている。
内裏内郭築地回廊跡 天皇の住まいである内裏を囲む廊下跡。国の史跡に指定されている。
東院跡 長岡京の離宮跡。国の史跡に指定されている。東院公園内にある。
春宮坊跡 長岡京の春宮坊(皇太子の生活を見る役所)跡。
鶏冠井かしの木公園内にある。
㉑南真経寺
南真経寺の解説パンフレット1
南真経寺の解説パンフレット2
㉒大極殿公園
㉓朝堂院公園
AR 長岡京
長岡京跡の解説パンフレット1
長岡京跡の解説パンフレット2
長岡京跡の解説パンフレット1
長岡京跡の解説パンフレット2
㉔向日社芝斎場
㉕築地跡
㉖北真経寺
北真経寺の解説パンフレット1
北真経寺の解説パンフレット2
㉗内裏内郭築地回廊跡
㉘東院跡
春宮坊跡

【④[五辻]から[一文橋]
見所満載の「長岡京跡」。少し時間を使いすぎた。先を急ごう。
「五辻」を直進すれば「西国街道」。少し下り坂になっている。直ぐ左手に「石塔寺」がある。
鎌倉時代末期に日像上人が建立したお堂が始まりだとか。
少し先の左手に「鈴吉大明神」がある。坂道を下りきると西新道に出会う。
阪急電車を潜り抜けると道の向かい側に西国街道の道標が見える。

横断する前にチョット寄り道しよう。
横断せずに左手の道に入り進むと「上植野御旅所(府社向神社旅所)」がある。
御旅所とは、
 神社の祭礼(神幸祭)において神(普通はご神体を乗せた神輿 )が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所だ。
隣接する上植野公民館前には「長岡京跡 朱雀大路 西小路遺跡」の案内板がある。
この辺りが朱雀大路の通っていた所のようだ(道幅は約64mとのこと)。
御旅所の少し先を左に行くと「上植野公園」がある。記録によると城があったようだ。

元の場所に戻り、西新道を横断し道標を見ながら整備された石畳の道を進む。
間もなく右手に「中小路家住宅」が見えてくる。江戸時代から明治時代の旧家だ。
喫茶店もやっておられるようなのでちょっと立ち寄ってみるのもいいだろう。
ゆるやかな坂を登りきったところが「一文橋」だ。
「一文橋」、名前の由来については説明するまでもないでしょう。

「知らぬ顔の半兵衛」という慣用句がある。戦国時代の武将・竹中重治が引き合いに出されることが多いが、
一文橋の橋守「半兵衛」さんが「通行料を払えない貧しい者を知らぬ顔して見過ごした」ことに由来する
という話を聞いたことがある。

この橋を渡ると長岡京市だ。
No 見所 One Point
石塔寺 鎌倉時代末期に日像上人が建立したお堂が始まりだとか。
「鶏冠井題目踊」は府の無形民俗文化財に指定されている。
鈴吉大明神
上植野御旅所 向日神社の上植野御旅所。 
朱雀大路
西小路遺跡
上植野公民館あたりに朱雀大路が通っていたようだ。
Google Mapには掲載されていない
上植野城跡 江戸時代前期に編纂された京都の地誌「擁州府志」に「城跡」として記録があるそうだ。
(上植野城公園内)。
道標 西新道を渡ってすぐにある
中小路家住宅 国登録の有形文化財。弘化五年(1848)造立。
今は喫茶店やカルチャーセンター的なこともやっておられるようだ。
一文橋 有料橋。お代は一文。そばに「一文橋の由来」碑がある。

㉚石塔寺
㉚石塔寺
㉛鈴吉大明神
㉜向日神社 上植野御旅所
長岡京 朱雀大路・西小路遺跡
㉞上植野城公園
㉟道標
㊱中小路家住宅
㊲一文橋
㊲一文橋
㊲「一文橋」 名前の由来
まだまだ続く西国街道

西国街道はまだまだ続きますが、
「近所の歴史探訪~「西国街道(その1)」編~」は、一旦ここで区切ることにします。
続き(その2,その3)は「乞うご期待」ということで。

続きは、以下の内容を予定しています。

近所の歴史探訪~「西国街道(その2)」編~
[一文橋]から[長岡京発見の地]
[長岡京発見の地]から[調子八角]

近所の歴史探訪~「西国街道(その3)」編~
【⑦[調子八角]から[ねじりマンポ]
【⑧[ねじりマンポ]から[松尾芭蕉句碑]



近所の歴史探訪~「西国街道(その1)」編~
近所の歴史探訪~「西国街道(その2)」編~
近所の歴史探訪~「西国街道(その3)」編~



近所の歴史探訪「街道」編は、
 ①近所の歴史探訪~「山陰街道」編~
 ②近所の歴史探訪~「山陰街道(その2)」編~  
 近所の歴史探訪~「西国街道(その1)」編~
 近所の歴史探訪~「西国街道(その2)」編~
 近所の歴史探訪~「西国街道(その3)」編~
 近所の歴史探訪~「物集女街道」編~
 近所の歴史探訪~「桂川街道」編~
の以上7編で完結です。