2016年6月12日日曜日

月讀(つきよみ,つくよみ)神社

月讀(つきよみ,つくよみ)神社


「古事記」に次のようなくだりがあります。

黄泉の国から逃げ帰った[イザナキ]は、黄泉の国の穢(けがれ)を祓うため禊(みそぎ)を行う。
杖、帯、衣、袴など身に着けていたものを投げ捨てると12柱の神々が生まれた。
更に水に浸かって穢を祓うと11柱の神々が生まれた。
その後、左目をすすぐと「アマテラス」が、右目からは「ツキヨミ」が、鼻からは「スサノヲ」が生まれた。
 三貴子(神)の誕生である。
「イザナキ」は三貴子(神)の誕生をことのほか喜び、首飾りを外して[アマテラス]に授け
「高天の原(たかまのはら)を治めよ」と告げた。
そして[ツキヨミ]には「夜の国を治めよ」、[スサノヲ]には「海原を治めよ」とお告げになった。


その後、「アマテラス」と「スサノヲ」を中心に物語は展開していくわけですが、
何故か「ツキヨミ」が登場しない。
主役を3人にすると話がややこしくなり過ぎるからか‥?
[アマテラス≒太陽(昼)]とのバランス上、付け足しで[ツキヨミ≒月(夜)]を無理やり設定したのでしょうか?

生けとし生けるものに恵みを与える[太陽]。
「ご来光」を拝んだり、「ご来光」を有り難がったりする風習は今でもあります。
一方[月を拝む]話は聞いたことがありません(昔はあったかもしれませんが)。

[月読]=>[月を讀む]=>[月の満ち欠けを読む]=>[暦]=>[農耕の神]と連想してみました。
が、[月読神社の由緒書には、「もともとは壱岐の豪族の壱岐氏が、航海の安全を祈るために
奉斎された「壱岐の月讀神社」から京の地に勧請したもの」とあります。

[月読]=>[月を讀む]=>[月の満ち欠けを読む]=>[潮の干満]=>[海を支配する神]の連想でしょうか?
何れにしても、理科や物理の知識の少なかったと思われる古代の人々が、
様々な自然の物や現象に対して、畏敬の念をもったことは容易に想像できます。

月読神社の由緒書き

月読尊、天照大御神や素盞鳴尊に比べ影が薄く、知名度も余りないように思います。
一日の半分は夜。夜の国を治める[月読尊]、もっともっと知っていただきたいものです。

月讀神社は松尾大社の南400mほどのところにあり、
現在は、松尾大社の境外摂社しとて位置づけられているようです。

松尾大社に参拝に出かけられる際は、月讀神社にも足を運び「古事記の世界」に思いを馳せて下さい。