2018年1月14日日曜日

「小倉あんパン」の"小倉"って何?

小倉あんパンの"小倉"って何?


時に無性に甘いものが欲しくなる時がある。そんな時は「(小倉)あんパン」が最高だ。
「小倉」の銘の入った「ぱん」の一例
小倉あんパン」の「小倉」という言葉、以前から気になっていた。
「小倉あんパン」の"小倉"って何?
ひょとしたら「小倉百人一首」や「小倉山(296m)」の「小倉」と何か関係があるの?


「小倉」の意味を求めて「嵯峨小倉」界隈を探索。
相変わらずの観光客の多さに少々辟易するが、二尊院、常寂光寺、落柿舎辺りをぶらりぶらり‥。

やっぱり行って見るものですね。
落柿舎の前(南側)の畑(?)の一角に「小倉発祥の由来」の駒形札を見つけました。
今まで何度も通ったことのある場所の筈なのに全く気づかなかった。

予想通りというか「小倉あんパン」の「小倉」は「小倉の里」のことでした。
「今を遡ること千二百年前頃、小倉の里の和三郎という人が、
八百九年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し, 
それに御所から 下賜された砂糖を加え, 煮つめて作った餡が"小倉餡"」ということのようです。
小倉餡発祥の由来 駒形札
駒形札は落柿舎南の畑(?)の一角にあります

小倉餡発祥の由来
 日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間もなくの八百二十年頃のことであります
 当時, 京のこのあたり小倉の里に亀の子せんべいを作っている和三郎という人がいて, 八百九年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し, それに御所から下賜された砂糖を加え, 煮つめて餡を作りました これを毎年御所に献上しました こうした菓子は極めて高価で珍しいものでありましたので一般の庶民の口には入りませんでしたがこの和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され江戸時代には茶道の菓子となり又一方では祝飯としてハレの料理にも加えられるようになりました
 更に空海は中国の亀の甲煎餅の技術も伝授し京菓子の技術は日本の和菓子の源流となりました
 和三郎は承和7年2月2日(840年)になくなりましたがその子孫並びに諸国同業の人びとがその功績をたたえて小倉中字 愛宕「ダイショウの里」に一社を建て朝廷の允許を得て屋号が亀屋和泉でありましたので和泉明神としてまつられるようになりました
 その後年月を経て明神の社は兵火に焼かれ子孫も絶えて 只古老の伝承として小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられています
津田左兵衛(六代) 記
【ご参考】
★津田左兵衛氏は、京都土産の定番「八つ橋」の井筒八ツ橋本舗の六代目当主だそうです。
★駒札のある場所は「嵯峨小倉山 緋明神町」。「明神さん」があったことを伺わせる。

小倉餡を考えだした「和三郎」は和泉明神として祀られた。
そう言えば、菓祖神社(吉田神社境内)の祭神の一人林浄因命(はやしじょういんのみこと)は、
「初めて餡入りの饅頭を作り広めた」として祀られている。
「神として祭り上げる」日本人の感性、興味深い。

なお二尊院の境内には「小倉餡発祥の地」と刻まれた石碑があるそうです。

【おまけ】
 嵯峨小倉の里の住人「和三郎」氏は「小倉餡」だけでなく「煎餅」も創り出したようだ。
 天龍寺北の有職菓子御調進所「老松」さんの店頭に「嵯峨小倉の里 煎餅発祥の地」の
 駒札が建っている。
「帰朝した。」は「帰朝した、」の誤り?
有職菓子御調進所「老松」