2022年3月6日日曜日

ほん魔界(まかい)な!?

ほん魔界(まかい)な!?

ご案内します、京の ほん魔界(まかい)な!?」スポットへ。さあご一緒に出かけましょう。

1200年の歴史ある京都、思わず「ほん魔界な!?」とツッコミたくなるようなスポットやお話が沢山あります。
幾つかご紹介します。

「ほん魔界(まかい)な?」、
関東の人はきっと「本当?」「本当ですか?」「嘘でしょう」「嘘~」なんて言うんでしょうね。
「ほん魔界(まかい)な?」は「なんでやねん!」と並んで関西を代表する言い回しです。


 斑女塚は、京都きってのビジネス街四条烏丸を少し下がった室町高辻にある。
繁昌神社」から西へ徒歩一分の少し奥まったところ。
斑女塚

随分前に来た時には岩の前に小さな祠があったのだが・・・

「班女塚」にまつわる話は、鎌倉時代の初期に書かれた
要約すると

「この地に住んでいた長門前司には2人の娘がいた。
その中の妹は未婚のまま病死した。
葬送の折、遺体を棺に入れ鳥辺野の墓地へ運んだが、
墓地に到着するとおさめたはずの遺体がない。
高辻室町の家に戻ると,遺体は元の位置のまま。
夜が明けてから又棺に入れ、今度は念を入れて厳重に棺に納め、
夜になったらなんとかしようと思っているうちに、
夕方棺を見ると、この棺の蓋が細目に開いているではないか。
近寄って見ると、死骸は棺から出て、また妻戸口の間に横たわっている。
遺体を棺の中へ入れようとするもびくともしない。
『これは死んでもここに居たいのだろう』と思い、ここに塚を造って葬った」

それが「斑女塚」というわけだ。
自分の居場所に強烈な思い入れ、愛着そして未練があったのでしょうか・・・?。

斑女塚」は近くの「繁昌神社(宮)」の末社奥之院という位置づけになっている。
由緒書きによると、繁昌神社(宮)の祭神は宗像三女神。
もともと「斑女ノ社」「半女ノ社」とも称し、牛頭天王の妃「針才女」を祀り、
それが転訛して「斑女」になった。
後世の書物に「『斑女』と『繁昌』は同音の為、男女参拝し子孫繁栄を祈願した」と書かれ、
縁結びの神として詣でられる他、宗像三女神の市杵島姫命が仏教の弁財天と解されることから、
商売繁盛・諸芸上達のご利益があるのだとか。           
繁昌神社(宮)
繁昌社 由緒



2.(京都)神田明神 (天慶年間、平将門ノ首ヲ晒シタ所也)
 平将門は、菅原道真、崇徳天皇と並んで「日本三大怨霊」と言われています。
天慶年間、平将門ノ首ヲ晒シタ」と伝わるところに(京都)神田明神があります。
 四条烏丸を西へ行った新町通りの先の細い路地(膏薬辻子(膏薬図子))を下がったところ。
 かっては民家の軒下の壁に埋め込まれていたが、今は立派(?)な神社になっていた。
 由緒を読むと、現在は東京の神田神社の管轄下にあるようで、
 祭神は平将門命の他に大己貴命、小彦名命となっています。 
(京都)神田明神 
かつての神田神宮
(天慶年間、平将門ノ首ヲ晒シタ所也)
平安時代,下総の国(=現在の茨城県)の【武将・平将門】は,税を滞納した人を匿って,
朝廷に反旗を翻し関東を制圧。新皇を名乗ったが,朝廷に制圧され,
首は京都に運ばれ晒されたという(正にその場所が「かつての神田神宮」)。
ところが,
梟首されても死なないで夜な夜な「骸を継いで再び戦う」と叫んでいたという。
ある日,首は体を求めて東へと飛んだが、途中、その土地土地に落ちたという伝承がある。
力尽きて最後に東京大手町(千代田区大手町1丁目2-1外)に落ちたという。
そこには、将門の首を供養するための「将門塚」がある。
(「将門」ゆかりの地は「将門散歩」に詳しい)

また,こういう話もあります。
「京の獄門台に晒されることになった将門の首は,運搬の途中で腐ってしまった。
で、腐った首を京への途上の丹八山(名古屋市南区鳥山の「丹八山公園」)に埋めて、
京へ運んだのは遺髪だけだった」という話です。
丹八山公園」にも首塚の石碑があるそうです。       
京都神田明神

京都神田明神 由緒

屋根の上には鍾馗さん

膏薬辻子(こうやくのずし) 由来

<おまけ>
斑女塚から神田明神に抜ける狭い通りに「仁丹の町名表示板」があります。
2022/5/6の朝日新聞の「古都ぶら」の記事によると
市内で588箇所(2022/3現在)確認されているそうです。是非探してみてください。
3.鵺(ぬえ)
「頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎」の怪獣(鳥)、それが「鵺(ぬえ)」だ。
神明神社境内にて 

平家物語巻4によると、平安時代後期、深夜、天皇の住まいである内裏に怪しい鳴き声がし
帝は大層怯えられ、病の床に伏してしまった。
そこで弓の名手である源頼政に鵺退治が命じられた。
頼政は、神明神社で祈願の後、見事に退治した。
鵺は、二条城の北方に落下し、その時に血のついた鏃を洗ったのが「鵺池というわけだ。

鵺池は二条公園の中(北側)にあり、中央に「鵺池碑」が立っているが磨滅しており判読不可。
傍には復元碑が建てられており、鵺神社もある。

【鵺池と鵺神社】(上京区主税町 二条公園内)                
鵺池(二条公園内)
鵺池(二条公園内)
鵺池碑(本文解読不可)
解説板

復元碑(北面)
復元碑(南面)
鵺神社

鵺神社

神明神社】(下京区神明町)
使われた弓矢の「矢じり」2本が神明神社に奉納され、社宝として伝わっている。
祭礼の際には一般公開されるようだ。
    


この話には続きがある。
鵺の祟りを恐れ、亡骸は舟に乗せて鴨川に流されたという。
淀川を下った船は大阪の今の都島に一旦漂着した後、
海を漂って芦屋川と住吉川の間の浜に打ち上げられたという。
夫々に鵺塚が建てられ、ねんごろに祀られているそうだ。
 ★大阪都島の鵺塚 (Google Mapへ)
 ★兵庫芦屋の鵺塚 (Google Mapへ)

 何ともおどろおどろしいネーミングの飴だ。
 幽霊子育飴は、みなとや子育飴本舗(東山区轆轤町東入ル西)で今も売られている(税込¥500円)。   
名前とは裏腹に、この飴には哀しくも母の愛情が生んだ感動の物語が秘められていた。
飴に同封されている「由来」には、
と書かれている。      
漫画家の「水木しげる」先生も、大層お気に召したようで「50袋も購入した」との
記事(週刊朝日 1997/1/31号)が店内に掲示されていた。
代表作のひとつ「ゲゲゲの鬼太郎」はこの話がモデルになっているという。

店の前には、西福寺があり、角に「六道之辻」の碑が建っている。
そう、ここは現世とあの世との境界にあたる場所だ。
葬送の地「鳥辺野」はこの辺り以東だ。
地名も「轆轤(くろ)町」となっているが、かっては「髑髏(くろ)町」と呼ばれていたとか。
「髑髏(どくろ)町」では余りにもドギツイ。
六道之辻」といい「髑髏(どくろ)町」といい「幽霊子育飴」に相応しいシチュエーションだ。
轆轤町
まだまだ続きの話があって、
母親がくれた飴のおかげで命拾いした赤子は、その後僧になって修行に励み
立本寺(上京区一番町)」の「日審上人」になったと言われています。
「立本寺」でも同名の「幽霊子育飴」を購入することが出来るようです。

さらに、上方落語の題材にもなっているようで、
そこでは「高台寺の高僧になった」とされています。
言わなくてもわかりますよね、オチは「高台寺(こおだいじ) =>子を大事」。


順次公開予定。乞うご期待。