2019年1月13日日曜日

皇都鎮護埋経(候補)地を巡る (その1 [南,西])

皇都鎮護埋経(候補)地を巡る (その1 [南,西])


「平安京が造営された際に、皇都鎮護のために京の四方の山上に一切経を納め,
 東西南北の名を冠する四つの岩蔵(※)が設けられた」
と云う伝承がある
(※)岩倉=岩蔵=岩藏=石倉=石座=磐座とも表記される。

松原通りにあるお寺[明王院 不動寺]が『南の岩倉』だと書かれた駒札を読んで以来、
残り(西・北・東)の「皇都鎮護埋経(候補)地」が気になっていた。
「南の岩倉」があれば、残りの西、東、北の岩倉も何処かにあるはずだ。
伝承の地「皇都鎮護埋経(候補)地」 はいずこ? 


というわけで、ネットで情報収集し実際訪ねてみることに。
 ★皇都鎮護埋経(候補)地を巡る (その1 [南,西])
 ★皇都鎮護埋経(候補)地を巡る (その2 [北,東])
の2回に分けてレポートする。今回は「西の皇都鎮護埋経(候補)地」。
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【南の埋経地】は[明王院 不動寺]か
お堂の扁額に「南岩倉

偶々、松原通を歩いているとき、とあるお寺(明王院 不動寺)の前に駒札があるのを見つけた。
(悪い癖で駒札や案内板を見るとついつい立ち止まって見てしまう)
駒札にはこんなことが書かれていた。
平安京造営の時に、桓武天皇は王城鎮護のため平安京の東西南北の四つの磐座(岩藏)に
経巻を収めたが、明王院はその四岩倉のひとつで「南岩倉」と称したと伝えられている」。
確かにお堂の扁額には「南岩倉」と書かれている。
明王院 不動寺
駒札
お堂
お堂の扁額に「南岩倉
   
   
しかし、「明王院 不動寺」の場所は、四条通と五条通の中間よりやや南の松原通だ。
「ここが「南の王城鎮護埋経地」だとすると、平安京の南端、羅城門、東寺、西寺などがあった
九条通までの間は鎮護されないのでは?」などと思いつつ取り敢えず写真に収めた。

 南の埋経候補地は
  ★雄徳山(≒男山)(八幡市)
  ☆獅子窟(ししくつ)山(寺)(大阪府交野市)
 だという説もある。
 (雍州府志(ようしゅうふし)の「北岩倉山」の項には「南の岩倉は河内國の獅子窟山」という記述がある)

【西の埋経地】は[西岩倉山 金蔵寺]か?
庫裏「西岩倉山」の扁額

金蔵寺は、京都西山連峰の一つ小塩山の山麓に位置する紅葉の隠れスポットとして有名なお寺だ。
金蔵寺の由緒書きには次のように書かれている。
「山号を西岩倉山と号し、天台宗に属する。寺伝によれば、養老二年(718)、元正天皇の勅によって
隆豊禅師が開創し、聖武天皇は勅額を賜り経典を書写して埋めたといわれ、
桓武天皇は平安遷都に当たり王城鎮護のため経典を埋め西岩倉山と号するに至ったと伝えられる。後略」。

境内の「下の川弁財天」の裏に「御経塚」がある。
御経塚の文字」の下に解説文が書かれている。正確にはわからないが、ニュアンス的には
=>「金蔵寺は桂昌院によって再建されたが、そのとき聖武天皇が埋めたとされる経典を入れた壺が
  掘り出された。元禄六年二月十九日」と読めるような気がするが果たして?
聖武天皇の話が確かだとすれば、桓武天皇の話も信憑性がありそうだ。
【西の埋経地】は[西岩倉山 金蔵寺]でほぼ間違いないか?
都名所図会の西岩倉金蔵寺の項には「岩蔵は山上にあり」と書かれているが、本堂の下という説もあるようだ。

金蔵寺、アクセスにやや難はあるが「埋経地探し」は別にしてぜひ一度は訪ねてみたいところだ。
金蔵寺本堂裏の左手には「桂昌院御廟所」がある。遺髪が祀られているそうだ。
(桂昌院は、徳川5代将軍綱吉の母で京都生れ。金蔵寺の再建に尽力した。通称「玉」。玉の輿の語源?)
他にも境内には「三社」、「愛宕大権現」、「葉山神社」などがある(小塩山への登山道もあり)。
境内東端には見晴台があり京都市内を一望できる。金蔵寺手前には「産の滝」もあり見どころは多い。
(紅葉が綺麗な秋がおすすめ)
西岩倉山 道標
西岩倉山 道標
西岩倉山 道標
金蔵寺
本堂
由緒書
解説版
庫裏「西岩倉山」の扁額
下の川弁財天
下の川弁財天の裏手にある御経塚
御経塚
御経塚の解説
三社
葉山神社
愛宕大権現
桂昌院御廟所
産の滝
見晴台
参道の階段から山門を望む 紅葉が綺麗

 続き(北と東)は、「皇都鎮護埋経(候補)地を巡る (その2[北,東])」をご参照ください。

【ご参考】近所にも「岩くら」と標記された道標があります。
(「岩くら」の標記だけですが、西岩倉を指すものと考えられます)
「右 西山御坊 大原の 岩くら」と読めます
(京都市西京区川島)