皇都鎮護埋経(候補)地を巡る(その2[北,東])
平安京が造営された際に、
「皇都鎮護のために京の四方の山上に一切経を納め,東西南北の名を冠する四つの岩蔵が設けられた」
と云う伝承がある。
松原通りにあるお寺(明王院 不動寺)が「南の岩倉」だと書かれた駒札を読んで以来、
残り(西・北・東)の「岩倉候補地」が気になっていた。
伝承の「皇都鎮護埋経(候補)地」 は何処に?
「南の岩倉」があれば、残りの西、東、北の岩倉も何処かにあるはずだ。
というわけで、ネットで情報収集し「皇都鎮護埋経(候補)地」を実際訪ねてみることに。
★皇都鎮護埋経(候補)地を巡る (その1 [南,西])
★皇都鎮護埋経(候補)地を巡る (その2 [北,東])
の2回に分けてレポートする。今回は「北と東の皇都鎮護埋経(候補)地」。
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【北の埋経地】は[山住神社 or 皇都鎮護埋経地碑]の辺りか?
京都市右京区には「岩倉」を冠する町名が沢山ある(for ex.京都市右京区岩倉上蔵町・・)。
地名からして北の「埋経地」の候補に相応しいが、地名の由来には2つの説があるようだ。
説1:
かつては「石座(いわくら)神社」と云われていた今の山住神社のご神体は巨石(磐座)。
その磐座(いわくら)が現在の岩倉の地名の由来となった。
(後に石座神社は現在地に遷座され、元の石座神社は山住神社と呼ばれるようになった)
説2:
平安京造営時に皇都鎮護のため、京の四方の山上に一切経を納め東西南北の名を
冠する4つの岩蔵が設けられ、この地にもその岩蔵の一つが置かれた。
単純に考えると、北の埋経地は「山住神社(元の岩座神社)」のようにも思えるが、
「山住神社」の少し北、実相院の裏手の山頂(「尼吹山(紫雲峰、如法経峰)」と言うらしい)に、
「皇都鎮護埋経地」と書かれた石碑が建立されている。
建立者や建立時期は不明であるが、何らかの根拠があってそこに建立したに違いない。
「神社(山住神社)にお経を埋める」ことについては多少なりとも違和感がある。
感覚的には尼吹山山頂の「皇都鎮護埋経地碑」のある辺りが相応しいような気がするが・・。
雍州府志の大雲院の項にも「大雲院は北岩倉山に在り」と書かれており、
北岩倉山≒尼吹山と考えると尤もらしい。
大雲院(と岩倉神社)への参道には「北岩倉」と刻まれた灯籠が建っている。
(尼吹山への登り方は「尼吹山(紫雲峰、如法経峰)(推定標高237m) 登山」をご参照ください)。
「皇都鎮護埋経地」は「『皇都鎮護埋経地碑」のある辺り』」将又「山住神社」なのか???。
何れにしても「この辺り」であることには間違いない。
「【北の埋経地】は『皇都鎮護埋経地碑辺り or 山住神社』」ということにしておこう。
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【東の埋経地】は[大日山墓地の周辺辺り]か?
「東の埋経候補地は『東岩倉山の観勝寺』だ」と言われている。
残念ながら現在の地図には「東岩倉山」も「観勝寺」も記載がない。
しかし、『東岩倉山の観勝寺』があったといわれる日向大神宮辺りの町名は、
山科区日ノ岡一切経谷町となっており、それっぽい。
また日向大神宮手前にある安養寺の不動明王堂内には「東巌倉不動明王」の扁額が掛けられている。
町名といい、東巌倉の扁額といい、日向大神宮(*)辺りは何となくそれらしい雰囲気なのだが・・・。
今回は、
1.江戸時代に書かれた、今でいうガイドブック
①「雍州府志(ようしゅうふし)」 (1682~1686年)
②「拾遺都名所図会」(1780年刊)
③「花洛名勝図会」(1864年刊)
2. 東山三十六峰 (大日山)
などを参考に「東の埋経地」を推理してみた(読めない崩し字などに四苦八苦)。
(*)「日向大神宮」については「これが京都(市内)の天岩戸だ!」を参照してください。
江戸時代の安永九(1780)年に刊行された「都名所図会」や元治元(1864)年に刊行された「花洛名勝図会」には
「東岩倉山」や「東岩藏山真性院」に関する解説や図会がある。
都名所図会:
「東岩藏山真性院 神明宮左の山上にあり、本尊は十一面観音を安置す。むかし王城の四方に経王を蔵(おさめ)らる、其石蔵の一ツなり。〔初めは伽藍厳重たり、応仁の乱に回禄(火災にあうこと)して今纔(わずか)に遺(のこ)りて小堂あり、是より十町(約1,090m)許(ばか)り山中に大日堂・不動瀧あり、・・・〕」
花洛名勝図会:
「東岩倉山 神明宮の上にあり??はその昔王城の四方の山に大乗経を蔵(おさめ)て帝土の鎮護とし岩倉と号す、これ東の方の岩倉なり。経塚今つまびらかならず東と北とは愛宕郡にあり西は乙訓郡にあり南は松原通麩屋町の角にあり石不動古跡なり・・・」
「東岩蔵山真性院は、右同所(=東岩倉山)にあり。いにしへは伽藍??として堂塔????応仁の乱?軍勢?????兵火のために焼失し今僅かに小堂あり?其?????」
観音堂:山の半腹にあり。十一面尊を安ち。是いにしえの伽藍の古趾なりとぞ
大日堂:山の絶頂にあり。大日如来を安置す。?尊いますを以て世に大日山といふ
稲荷祠:大日堂の前に巨巌あり。これを祠とし前に鳥居をたて玉垣を回りに
薬師堂跡:同下壇平均の地にあり
行基座禅石:同所にあり。西向
不動瀧:同所の下にあり。瀧の傍に不動堂あり。
と書かれている。
以上を元に『観勝寺と東岩倉山』の場所を推理・推測・推定してみた。
【観勝寺(≒東岩蔵山真性院)の推定位置】
以下を勘案し「観勝寺(≒東岩蔵山真性院)は現在の大日山墓地の北奥周辺にあった」と推定する。
①飛鳥時代に行基が「東岩倉寺」を開いた。
②中世(鎌倉時代-室町時代)には、行円が「観勝寺」を建立し東岩倉寺の寺号を継いだがその後衰退。
③鎌倉時代に、大円上人が「観勝寺」を再興し傍らに真性院を再興したが、「観勝寺」は応仁の乱で焼失した。
④「拾遺都名所図会」や「花洛名勝図会」に「東岩蔵山真性院」は応仁の乱で焼失したと
記述されていることから「東岩蔵山真性院」≒「観勝寺」ではないか思われる。
⑤「拾遺都名所図会の東岩倉の図絵には神明宮(「日向大神宮」)の左上の山上に東岩蔵山真性院が描かれている。
【東岩倉山の推定位置】
以下を勘案し「東岩倉山は、現在の大日山墓地の西の小山のピーク」と推定する。
①図絵の中に「東岩倉山」を明示したものは見当たらないが、花洛名勝図会の東岩倉山の解説を見ると
「豊臣秀吉が楼を設けた東岩倉山上から洛中が一望でき絶景の勝地である」と書かれている。
②花洛名勝図会の東岩倉大日山(東岩倉山)の図絵には鳥居(*)の少し先の左手の小山のところに
「・・・絶景なり」との解説が書かれている。
(*)この鳥居は現在の「二の鳥居」ではないかと推定
何れも今の大日山墓地の周辺にあったと推定するが、大日山墓地は猪除けの柵で囲まれており
柵外に出ることが叶わず柵内から見るにとどまった。
また上から見てみようと京都一周トレイルに入り[33-2],[33-3]と辿ってみたが、木々に邪魔され全貌は見えず。
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★参考資料のリンク先
1.京都風光(kyotofukoh「安養寺・大日山」)
2.拾遺都名所図会,花洛名勝図会
資料名 | 解説 | 図絵 |
遺都拾名所図会 | 東岩藏山真性院 日山神明宮 |
東岩倉 神明宮 |
花洛名勝図会 | 東岩倉山 東岩藏山真性院 日山神明宮 |
東岩倉大日山(東岩倉山) 不動瀧 日山神明宮 |
雍州府志 | 東岩倉山 ,東岩倉山 観勝寺山 ,北岩倉山 観勝寺 大雲院 金蔵寺 |
【皇都鎮護埋経(候補)地 まとめ】
「皇都鎮護埋経地」 と云われる地を訪ねてみた。
当然ながらPin Pointで埋経地を特定することはできなかったが、
それらしき場所を自らの足で歩いてみて「北と西」については少しだけモヤモヤが晴れた。
(東と南」についてはモヤモヤのまま)
「皇都鎮護埋経地」の候補地をプロットすると下の地図のようになる。
東西南北に「埋経」したという割には、形が凄く歪だ。
特に、南の方角については「西岩倉山金蔵寺」の方が「明王院 不動寺」より南に位置していて不自然だし、
平安京を全てカバーしきれていない。
(但し、皇都鎮護の対象が平安京ではなく平安宮(朱雀門以北)だと考えるとカバーされる)
南の埋経地は「明王院 不動寺」以外に、
★雄徳山(≒男山)(八幡市) 将又
☆獅子窟(ししくつ)山(寺)(大阪府交野市)
ではないかという説がある。雄徳山(≒男山)(八幡市)説の出所はわからないが、
雍州府志(ようしゅうふし)の「北岩倉山」の項には「南の岩倉は河内國の獅子窟山」という記述がある。
(「雄徳山は八幡神(=石清水八幡宮)の地だから仏経を納めるのは難しい」とも書かれている)
獅子窟(ししくつ)山(寺)(大阪府交野市)は行ったことないが、磐座と思われる巨石が多数あるそうだ。
個人的には「都から離れすぎ」との感がしないでもないが一度は訪れてみたい場所だ。
南の埋経地が雄徳山(≒男山)或いは獅子窟山だとすると何れも形が歪なのは変わらないが、
平安京は全てカバーされる。真相や如何に。
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花洛名勝図会の東岩倉山の解説には、
「東岩倉寺(東岩藏山真性院≒観勝寺?)から十町(約1km)ほどの山の中ほどに「『観音堂』、山の頂上に『大日堂』、
大日堂の前に『稲荷祠』、下壇の平均の地に『薬師堂跡』、同所に西向きに『行基座禅石』、同所の下に『不動瀧』がある」と書かれている。
また、遺都拾名所図会の東岩倉、花洛名勝図会の東岩倉大日山(東岩倉山)や不動瀧の図絵にもこれらが描かれている。
皇都鎮護埋経地とは直接関係ないと思うが、「拾遺都名所図会」や「花洛名勝図会」の信憑性を確かめるためにも、「忘れられた遺構を求めて」一度訪ねて確認してみたい。
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東西南北「岩倉」の名残?
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| 平安京(宮) |
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