2022年5月15日日曜日

近所にもあった!? 西院(さい[賽?])の河原

 近所にもあった!? 西院(さい[賽?])の河原

普段滅多に下車することがない「阪急電鉄 京都線『西院(Saiin[さいいん])駅』」。
「さいいん」と読むが、言い難いので「い」を一つ省略しいつも「さいん」と言っている。
これで通じるから、きっと他の人も言い難いと思っているのだろう?。
西院には Saiin のローマ字表記が…
所用で久々に「阪急電鉄 京都線の西院駅」で降りた。
駅から四条通をほんの少し東に行ったところに「京福電鉄 嵐山線の『西院駅』」がある。
当然駅の存在は知っていたが、何気なく駅名を見ると
西院 Sai さい」と表記されているではないか。

「へぇー、『西院』って『さい』とも読むんだ~」。
京都に住んで云十年、また一つ「京都 不思議発見!」(ひょっとして知らなかったのは私だけ?)。
何故、「西院」を「さい」と読む?
★「西院」が「さい」だとすると、「西」が[さ]で、「院」が[い]???
★「西」を[い],「院」を[ん]と読み、先頭の文字を組み合わせて「さい???
略語好きの日本人、言い難さも相まって西院(さいいん)を『さい』と略した???
★他の言葉の当て字???
京福電鉄 嵐山線の『西院駅』
合点がいかなかったが、時間がなかったので先を急いだ。
帰りがけ阪急西院駅のある西大路四条交差点北東角の「高山寺」前を通った。
ここには「淳和院跡」の碑が建っている。
別稿「平安京の痕跡を訪ねて」をまとめたときに時に調べたことがある。
平安前期、淳和天皇の後院(ごいん)「淳和院」があったところで、後院とは天皇即位後の御所のこと。
「淳和院は別名『西院』といい、西院の地名の起源でもある」と言う。
高山寺 淳和院跡の碑
高山寺 淳和院跡の碑
前に来た時には気付かなかったが寺院名碑の上に小さい字で何やら書かれている。
近寄ってみると、何と言うことでしょう~、
西院(さい)之河原 旧跡」と書かれているではないか。
   
「西院」には[さい]とルビがふってある。
昔から「西院」を「さい」と読んでいたのだ。
字こそ違え「賽の河原」だ。この辺りに「賽の河原」があったのか?。
興味津々、好奇心が沸々と湧いてきた。

早速境内に入った。先ずは本堂でお参り。
由緒書きなどがないので詳しいことはよく分からないが、
浄土宗のお寺で本堂には子安地蔵尊が祀られているようだ。
本堂に掲げられた額にはお寺の御詠歌が奉納されている。
「くろだにを はやたちいでて こうさんじ さいのかわらを まもるみほとけ」
本堂の前には大きな石仏と石仏の背後や周辺におびただしい数の小さい石仏群があった。
取り敢えず境内のあちこちを写真におさめ帰路についた。       
本堂
なでぼとけ
御詠歌

大きな石仏と背後の小さな石仏群

Wikipediaの「西院駅」(一部を省略)によると
「元来は「さいいん」と読み、平安時代から鎌倉時代(12 - 13世紀頃)の文書では「
さいゐん」であり、弘安10年(1287年)の文書に初めて「さゐ」の呼称が出現しており、
なまって「さい」と呼ぶようになったのではないかと考察されている。
江戸時代のこの一帯の名は「西院(さい)村」。戦国時代に記された上杉本洛中洛外図屏風にも、
この付近にあった西院城(西院小泉城)が「さい(こいずみ)のしろ」と明記されている。
また近代に入っても、地元の発音は依然として「さい」が使われていた。
近代に入り、地元民の呼称とは別に、当時の自治体名(西院村)の読み方は「さいいん」で、
公称としては「さいいん」が優位になり、
1934年に京都府の告示により正式に「さいいん」が公称化された。
(鉄道アナリストの川島令三は「『西院の河原』と呼ばれた葬儀の場所だったが、
縁起が悪いので新住民が『さいいん』と呼んでいた」と記述している)
また、公的文書による裏付けはないものの、京福の駅名は当初「さいん」であったものが
1933年(昭和8年)頃に「さい」に変更した、という地元在住者による証言を収録した書籍もある」
とのことである。

元々「西院」は「さいいん」と読み=>[さいゐん]=>なまって[さい]になったのだとか。
何となくわかったようなわからないような・・・。

高山寺は元は少し東の四条御前にあったが、御土居の建設に伴って現在の位置に移転したそうで、
名前も元の「高西寺」から「高山寺」に改名されたのだとか。
西大路通の西の通り春日通(以前は佐井通と呼ばれていた)は、
平安時代は道祖大路(別称:左比大路)と呼ばれており、
近くに川(佐井(比)川?)が流れていたそうだ。
(西大路通は、大正から昭和にかけて建設された新しい通りである)

「佐井(比)」は「賽」に通じる (賽≒西院(さい)≒佐井(比)?)。 
川があれば当然河原もあるでしょう。そこが葬送の地となっていたというのだ。
平安京西部は早くから荒廃が進み、この辺りは特に子供の葬送地となっていたというのだ。
(平安時代の葬送の地としては、鳥辺野、蓮台野、化野などが有名)
河原にあった石を積み上げ墓石に見立てたり、地蔵菩薩を祀って供養したのでしょう。
(高山寺境内の小さな石像は「御土居工事中に発掘されたものが集められたもの」であるという)
子供、河原と言えば「の河原」を、また道祖は「の神」を連想させる。
賽(さい)の河原」ではストレートな表現すぎるし縁起が悪そうなので、
音の同じ「西院(さい)」をあて「西院(さい)の河原」としたのではないかと推察します。

後日、春日通り(佐井通り)を八条から二条まで歩いてみたがそれらしき痕跡をみつけることは出来なかった。   
なお、市内には他にも
 化野(あだしの)念仏寺に「西院の河原」と呼ばれるところがある(入山料500円/大人)。
  ★「賽」ではなくて「西院」と表記されているのがみそです。
  ★「西院(さい)の河原」に関連する所のみを抜粋しました。
化野念仏寺 西院の河原

【おまけ(化野念仏寺にて)】   

鴨川と桂川の合流地点も「賽の河原」の候補地だと言われています。